Accel Sky
ウェル

 この世界は須らく深淵だ。ボクはそう思った。暗い影を落とした地表は靉靆なる地獄の底のようで、吐き気を催す。
 何故自分はこんなところに生まれたのか。純然たる疑問に、しかし答えは出ない。誰かに教えて貰うつもりもなかった。ボクは孤高の王だ。誰の手を借りることもしない。
 とうに枯れ果てた巨大樹の枝の上で神様の目覚めを待った。鬱陶しいこの地上に光の標が現れるのを待ちわびていた。
 しかし幾ら時間が過ぎようと、その瞬間が来ることはなかった。無粋な雲が空と地上とを遮断し、陽光さえも阻んでしまっていたからだ。
 蒼穹を隠した雲は今日もボクらを見下し、嘲り笑う。太陽さえも包み込んで、ボクたちから光を奪う。雲海の隙間から洩れ出た曙光が微かに照らす地上はそこはかとなく暗く、絶望に満ちていた。
 あの雲さえ無ければ、世界は輝きを増すだろうに、何故皆はあの雲を受け入れるのだろう。ボクは不思議でならなかった。
 ボクはハヤブサ。空の王者だ。風をも切り裂く翼を持ち、雲さえも貫く嘴があった。そして何よりも、こんな辺鄙な場所で一生を終えることに甘んじない強靭な心を持ち合わせている。
 地球は大きな牢獄だ。そして雲はさながら鉄格子の役割を担っているのだろう。こんな場所で朽ち果てていい道理がない。何のために翼を持った。何のために誇りを抱いた。それらは全て、この檻を脱出するために用意された武器だ。ボクは飛ぶために生まれた。翔けるために生き続けた。重力にピン付けされるような屈辱の日々を過ごしてきたのは、そのための布石だ。
 来たるべき時、ボクはいつでも飛翔するだろう。何よりも澄んだ空を、蒼穹を、そして宇宙を。

「みろよ、ハヤブサのヤロウだ」
 大樹を寝床とする鳥たちが、陰口になっていない陰口を叩く。
「あの大ホラ吹きが、のうのうと」
「一匹狼を気取ってら」
 ボクは鼻を鳴らして、目を瞑る。相手にするだけ無駄だ。こいつらだけではない。この世界中の何処を探したって、ボクと解かり合える者などいないだろう。ましてや、夢を分かち合う者など尚更に。
 何時だって一人で生きてきた。孤独ではない、孤高の王なのだ。
 夜は長かった。星も月も見えない夜空は穴のように暗く、吸い込まれそうなほどに闇黒を纏っている。時が経てば、日は登るだろう。しかし、それは真の意味での夜明けには成り得ない。
 厚い雲の隙間から透けて見える光が降り注ぐだけの朝を、誰が朝と呼ぶだろうか。ボクは朝が来るたびにもどかしさでいっぱいになった。あの雲を吹き飛ばして、溢れ出んばかりの光を一身に受けたい、と思ったのだ。
 斯くして今日も偽物の朝がやって来た。地上には雲というフィルターを通した濁った光が差し、鳥たちは大きく欠伸をして目を細めた。
 ボクは目を見開くと、思い切り枝を蹴りつけた。そしてそのまま翼を広げると、雄叫びを上げながら飛翔を開始する。螺旋を描くように、巨大樹の周囲をぐるぐる廻りながら高度を上げていく。
 いよいよ巨大樹の天辺を追い越した時、ボクは嘯いた。誰しもに聴こえるように、声を張り上げ、喉を締め上げ、雄叫びを上げた。
「あの雲を突き抜け、あまつさえあの空も、見果てぬ蒼穹も、そして宇宙さえも、見下ろしてやろうではないか!」
 世界中に響いたその声に、あらゆる者が振り返り、その言葉に耳を疑った。
「無謀な挑戦をするヤツがいるな」
「あの雲は天蓋だ。越えられる筈がない」
「この空を見下ろそうとは、天の神様への反逆ではないか」
 碌なやつがいなかった。
 皆が皆、あの空を恐れ、畏怖し、その上自らを縛りつける天井だとさえ思っているのだ。
 空は、何より自由の象徴だというのに、何と愚かな事だろう。
 ボクの宣言を支持する者がほぼ皆無だったことはさして気にならなかった。正直言って、元々期待もしていなかった。
 この世に生を授かったなら、極上の夢を見るものだろう。ありきたりなんてつまらない。ボクの夢はあまりに大きかった。他の誰もが、その夢を共有できないほどに。
 ただ、それだけのこと。

 高らかに歌いながら、空を雄飛する。そんなボクのことを地を這う動物たちが妬ましそうに見上げてきたので、思い切り見下してやった。雄大な空はボクのものだ。
 空は、三つの空に分かれている。一つは空。ボクが今飛んでいる、雲の下の空だ。次が蒼穹で、雲の上にある空。この蒼穹を飛ぶ者はほとんど居らず、アネハヅルと呼ばれる鳥が牛耳っているらしい。そして最後が宙だ。宇宙とも呼ばれている。
 重力さえも振り払い、宇宙へ羽ばたく。その悲願を成就させることだけがボクの生きる意味だった。

 やがて日は暮れ落ち、夜がやって来た。空には斑に星が瞬くはずだが、当然のように見えない。宙を隠すのは雲だけではなかった。雨、雪、砂嵐、雷。星粒一つみる事さえ困難を極めた。
 見ろよ雲が覆った世界を。雷鳴が轟く地平線を。あれは神様の怒りか、はたまた歓喜なのだろうか。
 雨風を凌げる場所を探して翔けている時のことだった。丘の上で少年が一人、空を見上げながら立っているのを見つけた。
 少年は星を探しているようだった。降る雨など気にも留めず、ただ貪るように天を仰ぎ見ている。暗闇の中、少年の姿は闇と混ざり、雷が落ちる一瞬のみ、その姿が露になった。
 ボクはその姿を見下ろしながら、少しばかり嬉しくなった。ただ一つ、この少年は自分と同じものを持っていた。
 ボクは薄ら笑みを浮かべて鼻を鳴らす。目指す先は地平線だった。

 誰もが夢を抱えて生きている。あの場所へ行きたいと、祈りを胸の内に秘めている。
 ある人は、世界の中心に聳える巨塔を。
 ある人は、大切な人の傍を。
 ある人は、不幸な者を救済できる場所を。
 ある人は、世界の始まりの樹の上を。
 ある人は、束縛されたお城の外を。
 下らないね、そんなもの。ボクの夢は世界の果てさ。誰よりも高く遠いのさ。

明くる日、ボクはオレンジ色に煌めく砂の海の上空を滑空していた。広大無辺に広がる砂漠は、昨日とは真逆の景色なのだが、この世界ではそれは当たり前のことだった。神様の機嫌一つで目まぐるしく変化していくこの地上は何とちっぽけなのだろうか。
 砂海に浮かぶ岩を見つけたので、その上に着陸する。鋭い視線で空を睨んだ。相変わらず淀んでいた。
「見ろよ砂嵐が覆った地表を。揺らめく風が鳴り響く地平線を」ボクは誰に言うでもなく、一人呟いていた。
「この砂漠からは出られやしない。天は全てを鎖したのだ」
 不意に声が聞こえた。振り返れば、岩の麓に一匹のハイエナが鎮座していた。その声に呼応するように、上空から腐乱臭を漂わせながらハゲタカがやって来た。
「ギャハハ、マダ雲ヲ越エルダナンテ絵空事ヲノタマッテイタノカ。傑作ダナ、コリャ」
 厄介なやつらに絡まれたな、とボクは内心で毒づいた。ハイエナとハゲタカは死の臭いを敏感に嗅ぎ分け、その肉を喰らう腐肉食者だ。
 こちらが瀕死でなければ滅多に手を出してこない狡猾なハンターなのだが、一度絡んでくるとチンピラのようにしつこいのだ。
「お前らには関係のないことだ」
 ボクは低い声で唸ると、翼を広げて離陸する構えを取った。しかし、その前にハゲタカが羽を散らしながらボクの頭上に舞う。
「ナンダナンダ、オ高ク止マッテイルツモリカ? ギャハハハ!」
「そうだ。ボクは空を翔ける誇り高きハヤブサだ。お前らみたいな血肉に塗れる下賤の輩は、地にひれ伏せているのが相応しい」
「面白いことを言うではないか。確かに我々は地に住まい、死肉を喰らって生きる者だ。だが、雲が天蓋と化した今、全ての生命はこの地上に住まう他なくなったのさ。キミが、いつまでも夢などと称して下らない現実逃避をしている間に、我々は此処で生きる術を学んだのだ」そう言いながら、ハイエナは血と油で鈍色になった犬歯を剥き出しにした。
「御託は結構だ。ボクはもう行く。貴様らは一生そこで死体を食い荒らしていればいい」間髪入れず足元の岩を蹴りつけ、翼を広げた。ドクン、と心臓が脈を打った。それに呼応するように、一対の翼は大きく上下し、風を下方に向けて打ち据える。
 ハイエナはそのとばっちりを喰らいそうになり、砂埃から目を防ぐために目蓋を閉じる。しかし、ハゲタカは「ギャギャ!」と甲高く鳴くと、ボクの上に覆い被さってきた。
 身を翻して回避しようとするも、速度が味方になっていない現状、ハゲタカから逃げおおせる術は無いに等しい。
 ボクの体長が約五十センチなのに対し、ハゲタカの体長は優に一メートルを超している。しかも、ハゲタカはボクの真上に陣取っている。もしもこのまま揉み合いの戦いにでもなってしまったら、圧倒的に不利だ。一歩間違えれば、命さえ落としかねない。
 ハゲタカの爪が上から襲い掛かる。ボクはそれを必死に払いのけながら、ハゲタカと距離を取ろうとするが、なかなか叶わない。
 双方の羽が白煙のように舞い散る。ハゲタカが両脚の爪で思い切り引っ掻いてくるものだから、中には血が滲んだ羽もあった。
 それでも何とかもがいてハゲタカの下から抜け出ると、鬱憤を晴らすように思い切り羽ばたいた。
 あっという間に景色は置き去りになった。一回翼を振るう毎に、速度はぐんぐん増していき、冷たい風が全身を撫でる。
 こうなれば、ボクの独壇場だ。水平飛行時の速度は時速百キロメートル弱。並大抵の鳥では追いつけまい。ちらりと振り返れば、地平線の辺りに黒い点が二つ並んでいるのが見えるだけだった。


「随分、無茶をしたようですね」
「五月蠅い」ボクはぴしゃりと吐き捨てた。この男には、何かと世話になっているが、何故か気を許すことは出来なかった。相手からの恩ばかりが積み重なっているので、余計そう思うのかもしれない。
 場所は、人間の住処の一室だった。白で基調された部屋で、ボクと眼鏡をかけた優男が向かい合って座っている。座っている、という表現はおかしいかもしれないが、他に叙述するワードを知らなかったので、そう表現しておく。
 この優男は、人間たちには「先生」と呼ばれているらしかった。確かに知識も豊富だし、そう名乗る権利は、まぁあるだろう。
「相変わらずですね、貴方は」
 ボクがこいつと初めて出会った時、ボクはまだ幼かった。ただでさえ地球環境が悪化している状況だ。ボクは幾度となく傷つき、地を這いつくばっては生にしがみ付いていた。察しの通りだと思うが、そこでこいつが現れたのだった。
 助けられたのは事実だが、命の恩人ではないし感謝もしていない。ボクは助けてなどと頼んだ覚えはないからだ。こいつが勝手にボクを助けた。それだけだ。
「安心してくれていい。俺とあんたの腐れ縁も、後僅かの命だろうさ」
 身体は成熟した。決意も固まった。もうこの世に未練などない。後はただ、上を向いて翔けるのみ。
「……行くようですね」
「それがボクの、生まれた意味だからな」
「それならば、お願いがあります。決行の日を、七夕の前日にしてくれませんか」
 やつは、やけに真面目なトーンでそう言った。ボクは少し驚いて身じろぎした。こいつが頼みごとをするだなんて、珍しいにもほどがある。
「七夕、七夕ねぇ。七月七日のことだろう? まだ一週間もあるじゃないか。ボクは誰に囚われる気もしないし、指図を受ける気もないのさ」
「貴方の志を継ぐ者がいる、としても?」
「なんだそりゃ」
「宇宙に憧れ、宇宙を目指すであろう子が、私の生徒に一人いるんですよ。雲に穴が空けば星が見えるようになる。実際に星を見れば、いよいよ決意は固まるはずなのです」
「それで、ボクに何のメリットがある?」
「メリットなど、要らないでしょう。キミはただ、同志を探していたのですから。あとは行動で語ってくれればいいのです」
「孤高の王たるこのボクが同志を探している……だと……?」
 一瞬、頭に血が登って怒鳴り散らしてやろうかと思ったが、ギリギリ踏みとどまった。ただの言葉の綾だ。ボクが探しているのは同志ではない。ただ、理解できるだけの賢い者がいればいい、くらいの願望だ。
 結局ボクは承諾した。あいつには常々世話になったし、これで借りもチャラだ。翼は一層軽くなり、よくしなるように感じられた。


 それからの日々は風よりも早く過ぎ去って行った。傷は順調に回復し、疾く包帯も外れた。憎らしくて仕方のなかったこの地上とも、あと暫しの付き合いだ。俯瞰して見てみると、この世界も存外悪くないかもしれない。そう思えるくらい、心は落ち着いていた。もっとも、だからと言って雲を抜ける事を止めたりはしないが。
 いよいよこの檻と決別できるのだという開放感を味わいながら遊飛行をしていると、聞き覚えのある声が鼓膜を揺らした。
「ギャギャギャ! ハグレモノガマタ飛ンデイルゾ」
 眼下に見える、ハゲタカとハイエナのコンビだった。相変わらず血肉に塗れながら、狡猾な眼光でこちらを睨んでいる。
「また貴様らか。いつも暇な奴らだな。他にすることはないのか?」
「我々のすることと言えば、生きるために獲物を狩り、喰らうことのみだ。キミは我々の獲物なのだよ。どうやらそれを自覚していないらしい」
 ハイエナが軽く身振りで合図すると、ハゲタカはいつぞやのようにこちら目がけて飛び掛かってきた。ただ、前回と違うのは両者の間に距離があったことだ。
 ボクは身を翻して、上昇を開始した。全力ではなく、比較的緩やかな速度であったが、ハゲタカは追い縋ることもできないようだった。
 ハヤブサの真価は、急降下時に現れる。実を言うと、ハヤブサは水平飛行をしている間は最速には程遠い。精々時速百キロメートルが限度だ。
 しかし、気流を味方に付け、急降下する時のハヤブサは時速四百キロメートルに迫る勢いを得る。水平飛行時の約四倍である。これは全ての鳥の中で最速の記録であり、ボクが空の王者たる所以だった。
 気流の流れを読みながら、ボクは急速に高度を上げていった。恐らく次飛ぶ時には、今と同じくらいの速度で雲を突っ切るのだろう。
 だが此度は違う。眼下のハゲタカが蟻のようにちっぽけに見えるようになってから、体躯を反転させた。気流や重力を味方に付け、急降下攻撃をかますのだ。ほぼ垂直落下だった。嘴が大気を裁断し、稲妻のように空中を走った。濃く描かれた集中線が、ハゲタカに焦点を合わせる。眼窩を細めて、獲物を睨んだ。こうして”狩り”をするのは久々だ。胸が高鳴る。
 ハゲタカは、ボクの勢いを見て、己の劣勢を悟ったのだろう。けたたましく鳴き声を上げると、大仰に羽ばたいて逃げようとする。
 だが、今更遅いのだ。今のボクは空の王なのだ。今のボクより速い生き物は存在しない。狙いを定めた獲物は、必ず喰らう。
 畏怖せよ。恐怖せよ。お前たちは、空の王を怒らせたのだ。
 それは刹那の出来事だった。ボクとハゲタカが交差するその一閃で、ボクはやつの腸を食いちぎり、そこから地面すれすれで水平飛行に移行した。ハゲタカは声もなく地面に倒れ伏し、ハイエナは何も言わずに砂埃に紛れ、何処かへと姿を眩ました。
 ボクは食いちぎった腸を吐き捨てた。クソ不味かった。


 目を閉じて、呼吸を整えた。心拍数は安定している。翼の疲労は全て取り除いた。覚悟は出来ている。
 暗闇の中で、ひそひそと話している声が聞こえる。詳しくは聞き取れないが、どうせボクの悪口だろう。もう慣れっこだ。それに今こそ、目にモノを見せる時がやって来たのだ。
 目蓋を開き、一つ雄叫びを上げた。それから樹を飛び立つ。焦りはなかった。緩やかに高度を上げていく。目指すはあの群青だ。
 太陽を隠した雲に守られて飛ぶツバメの群れを追い越して、その先を目指す。
 光を怖がった鳥たちを次々と追い越し、追い抜き、無限ともいえる距離をただ翔けた。もしかしたらあの雲は夢幻なのかも知れない。ふとそんな考えが頭を過ったが、そんな雑念は振り払う。
 いつしか、雲は眼前に迫っていた。この空の天蓋と呼ばれた雲。それが今、確かにボクの前に立ち塞がっている。
 ボクは躊躇うことなく、その中に切り込んだ。視界全体を覆った雲の群れが身体を切り裂いていく。実体はなくても、確実に体力を奪ってくる。翼が凍え、ボクを遮る。
 邪魔だ邪魔だ! 心の中で吼える。ボクはハヤブサ。誰もボクを止められやしないのだ。
 荘厳な空が相手でも、孤高の王であるボクは独りで飛べる。ボクの翼は風よりも速い。
 誰もがバカにした。誰もが嘲笑した。空を越えられやしないって。蒼穹は無限だって。宇宙はただ眺めるだけのものだって。下らないな、初めから諦めてる連中に興味はないのさ。
 指咥えて見てろよボクの後姿を。
 翼は冷気に冒され、薄氷が身体のあちこちに付着した。刺すような冷たさが全身を襲う。それでも飛ぶのを辞めたりはしない。
 雲は決して天蓋などではない。ただそこに在っただけのものだ。いつか終わりは来る。
 やがて一筋の光明がボクの顔を照らした。その光は力強く、そして暖かかった。凍えた身体は少しずつほだされていく。
 水面を突き破ったように、雲の海から飛び出した。もうもうと立ち込める白い蒸気を振り切って、天を仰ぎ見る。広がる群青、そしてようやく姿を現した太陽に目を細めた。ようやく、雲を突破したのだ。
 未だかつて到達した事のなかった高み、空の上にある蒼穹にボクは居た。不思議と静かで、心地よかった。雲の下に蔓延っていた淀んだ空気はなくて、清々しいくらいマクロな空間だけがただ広がる。
「見ろよ太陽は、あんなに力強く輝いているんだぜ」地上のやつらにも、見せてやりたかった。あるいはもう見ているのかも知れない。ボクが貫いた雲は、大きな穴となっているはずだ。そこから日差しが降り注いでも不思議じゃない。その光はきっと希望となるだろう。

 ボクは大きく息を吸い込んだ。予想はしていたことだが、空気は雲の下と比べ明らかに薄くなっていた。それでも精一杯翼で空気をかき集めては後方へと放っていく。どんな場所でも飛んでみせよう。誰にも止められやしないのだ。
 遠方から、アネハヅルの一群が飛んできた。彼らは世界の管理者を名乗る集団で、ボクはどうにもいけ好かなかった。
 蒼穹を自分たちだけで独占していたのも気に食わない。彼らは抑圧の無い声で嘯いた。
「こんなところを一匹で飛んで、はぐれ者、異端だ」と。
「独りがいいんだ、自由に飛べるだろ。誰に気を遣いたくもないのさ」すれ違いざま、そう言い返してやった。
 登る、昇る、上る。眩し過ぎる太陽が、ボクの前に立ちはだかっている。
「待っていろよ、すぐに追いつくから」太陽に向けて吐き捨てた。
 大気圏は、もうすぐ終わる。

 急に、身体が重くなった。一メートル昇る毎に増す重圧。限界が、すぐそこまで近づいていた。
 風よ風よ、ボクを押してくれ。
 翼よ翼よ、ボクを導いてくれ。
 ボクは空の王者ハヤブサ。例え空気が無くたって、飛べるはずだから。
――誰もが笑ったさ。
 誰もが信じなかったさ。
 信じたのは、ボク自身だけだったんだ。――

 見ろよお前ら。見えるんだろ、小さな大地から、ボクが突き破った雲の隙間からボクを見上げて。
 見ろよお前ら、ボクは雲を抜けたのさ。
 見ろよお前ら、ボクは地平線を越えたのさ。
 見ろよお前ら、燃えるボクの翼を。
 見ろよお前ら、諦めないで、もがくボクの姿を。
 見ろよお前ら、笑っていただろ。バカにしただろ。
 見てろよ、ボクが果てへ辿り着いてやるから。
 空気の摩擦で、翼が燃える。焔となって、それでも宙を目指すのだ。
 一瞬一瞬が永遠のように感じられる。刹那の余韻で翔けながら、眼下に広がる景色に目を剥いた。
 雄大な空も、壮大な蒼穹も、遥か下方にあったのだ。誰の姿ももう見えない。

 自分を裏切ることが、ただ怖かった。
 死んでもいいと思った。最期に生きる意味を確固たるものにできるなら。
 摩擦によって、身体が焔に包まれる。最早熱さえも感じなかった。朦朧とする意識の中、ただ果てを目指して翼を広げる。
 誰もがボクとは分かり合えなかった。誰もがボクとは違ったんだ。
 ボクだけが、宇宙へ辿り着ける。

――そして蒼穹の蒼は、宇宙の藍へと移ろっていく。

 茫漠な宇宙の影、上も下もなく、ただボクは光に呑まれながら辺りを漂い続けた。身体はもう、ほんの少しだって動かなかった。目も閉じたまま開かない。ただ不思議と、暖かかった。
「笑えよお前ら。ボクはもう死ぬんだぜ。身体が灰になってさ。
 聴けよお前ら、最高にハイな気分さ。
 くそったれな世界よ、さよーなら!」



 大樹の上、雲の切れ目を仰ぎ見ながら小鳥が一匹寂しそうに囀った。
「嫌われ者だったあのハヤブサは、もう居ない」

                           FIN
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