絶望哀歌


絶望哀歌


☆希望くん
★絶望ちゃん


 夏の匂いが過ぎ去ったのはもう一月以上も前の話で、紅く咲き誇った椛が風に散り始めたのは最近のことだ。季節は巡り、学校に通う俺たちは成長し、また未来が一歩近づいてくる。
 未来が眩しいか暗いかなんて俺たちにはまだ分からないことで、分からないからこそ怖くて、怖いからこそ今を懸命に生きていて。何にせよ悔いだけは残したくなかった。たとえ俺たちの今が、紅葉を散らす一瞬の風だったとしても、その刹那を大切に抱いて生きていたいのだ。
 だからこそ、高校に入学した当時の俺はすぐさま部活動巡りを始めた。有り余るパワーを使って、何かをしたかった。
 中学の時は運動部に所属していたから、身体はある程度できている。高校生活でもまた運動部のどれかに入るだろうと、漠然と思っていた。思っていたんだけども。
 結果から言うと、俺が入った部活は『自由音楽部』だった。軽音楽部の亜種みたいなものだろうか。音楽を自由に表現しようぜという内容の部活動。
 勧誘された時は、そんな珍妙な内容の部活もあるのかと驚いたものだが、今ではすっかり馴染んでいる。

「もう十月も末か。段々肌寒くなってきたな」
 放課後。冬が近づき、徐々に空の就寝も早まっていく今日この頃。遠く染まる茜空を眺めながら、俺は昇降口から外へ出る。
 今日は部活動がないから部室には行かない。かと言って他の生徒に紛れて帰宅するわけもなく、運動部の大半がそうであるようにグラウンドや体育館へ行くわけでもなく。
 俺が赴いたのは、学校の僻地、裏庭だった。
 私立学校だからか、この学校には珍しく文化活動用のホールがある。体育館くらいの大きさの建物で、普段は使われていないが、式やコンクールなどは体育館ではなくこちらで行われる。
 このホールの裏側に僅かなスペースがあるのだ。地面はきちんとコンクリートで舗装されているし、草木が生い茂っているわけでもないので環境は悪くないし、ホールの壁はガラス張りになっているのが何より便利だった。それに、人は滅多に寄り付かない。
 ここでなら、思う存分練習をすることができる。
 俺はガサゴソと鞄の中を漁る。そして取り出したのはミュージックプレイヤーと小型のスピーカー。その二つの機材を地面に置いて、俺は大きく深呼吸した。静寂と張りつめた空気が奏でる緊張感と高揚感は、いつになっても新鮮なままだ。
 正面のガラスは制服姿の俺を克明に映している。まるでガラスの向こう側にももう一人俺がいるみたいだ。
 俺はおもむろにプレイヤーのスイッチを押した。途端にスピーカーから流れ出る旋律。小気味いいメロディが辺りに響き渡り、俺もステップを踏んでリズムを取り、音に合わせて身体を動かしていく。
 勘のいい人ならもうお気づきだろうけど、俺が今やっているのはダンスだ。文化祭でのステージ発表が近いから、こうして空き時間を見繕っては一人で練習をしている。
 ガラスに映る自分の姿を確認しながら踊っていく。やっぱり自分の動きを確認できるのは便利だ。どこがどう駄目なのか、どうすればより良くなるのかがはっきり分かる。
 技術を磨くのもそうだが、改善することだって大切だ。
 そうして繰り返し、繰り返し曲をリピートしながら練習を重ねていく。気が付けば一時間以上も経っていた。踊るっていうのは意外とカロリーを消費する。全身を使うし、動きも結構ハードだからだろう。そのおかげか、初冬だというのに身体はすっかり温まっていた。
「今日はこの辺にすっかな」
 そう呟いて、撤収作業に入る。今日は今まで以上によく踊れていたと思う。これなら、ステージ発表でも悔いの残らないダンスを披露できそうだ。
 機材を抱えて、その場所を後にする。念のため、忘れ物はないか振り返った。何もない。
 でもその時、一瞬だけどガラスに映った俺の姿が、黒い制服の女の子の姿になっていたような……?
「……いや、気のせいか」
 疲れているんだろうな、きっと。今日はもう帰ってゆっくり休養しよう。



 十六年生きてきて、私が得たものとは一体何だったのだろう、とふと思うことがある。
 認められることもない、褒められることもない、誰かの一番にもなれない、そんな私の毎日は黒くくすんでいて、いつしか生きていて何の意味があるのだろうと思うようになって。
 放課後になると、私はふわふわ風船みたいに宙に浮かんで、何処へ行けばいいのかも分からなくなる。なるべくなら家には帰りたくなかった。お父さんとお母さんと一緒に居たって、与えられるものは痣ばかり。制服で覆ってリボンで結んで隠した傷は、私しか知らない痛み。
 この世界に言いたいこと、物申したいことはたくさんあるけれど、うずくまってただ痛みに堪えるだけの人生を送ってきた私なんかは、世間から見てただの敗者でしかないのだろう。そんな私の声なんて、一体誰に響くだろう。誰に届くと言うのだろう。
 何の特技もない、長所もない、学校でも家でも道の上でもただ一人の私なんて、風に吹かれて飛んでしまう程度の存在だ。
 生きる意味も、生きる楽しさも理解できない私だけど、死ぬのは漠然と怖かった。生きる必要以上に、死ぬ必要を感じなかった。だから私はせめて、なるべく苦しくない生き方をしようと思った。
 家で日常的に起こる折檻が原因なのかは分からないけど、私は人と積極的に関わるのが怖かった。触れたくない、話したくない、見られたくない。だから私は友達と呼べる存在も居らず、集団活動が苦手で部活動にも参加しなかった。
 だから学校にも居場所がなかった。でも私には放課後時間を潰す居場所が必要だった。
 この学校で落ち着ける場所は限られる。幾らひと気がないからってトイレは論外だし、空き教室も見つかったら目立つ。図書室が最有力候補だったけど、人の目が多すぎて落ち着かなかった。裏庭はこれから寒くなるだろうから勘弁だ。そうして最後に行き当たったのが、文化活動用のホールだった。
 普段解放こそされているものの、いつも無人のホール。コンサート会場みたいだと思った。全面ガラス張りのものの、マジックミラーになっているため、外から中を覗き見ることもできない。まさにおあつらえ向きだった。
 隅っこのシートに座ってみる。椅子はふかふかで、座り心地が良かった。それから無人のステージを見ながら、音楽を聴いたり、小説を読んだり、微睡んでみたり。ちょっと薄暗い空間が、不思議な安心感を与えてくれて。
 それ以降、私は放課後になるとホールへ立ち寄るようになったのだった。

 季節は巡り、春は過ぎ夏が来た。やがて夏も去って秋が来て、それでも私の放課後は変わらなかった。いつ来ても、このホールは暖かく私を迎え入れてくれた。
 九月中旬のことだった。私はこの頃、暇になるとホールの中を探検するようになっていた。舞台袖や舞台裏。二階の立見席。ステージ上、客席。誰もいない建物を歩き回るというのは意外に面白い。普通滅多に来ない場所だからこそ尚更だ。
 ホール内を一周ぐるりと回って、客席に戻ってきた私。次はどこに行こうか、そう思っていると、ふと視線の先に何かが見えた。
 客席の側面のガラスの向こうで、一人の男子生徒がこっちをじっと見ている……?
 自分の行動を全部見られていたのかと思い一瞬怖くなったが、大丈夫、安心して、と自分に言い聞かせる。外から中の様子を覗くことはできないんだから。
 ホールの壁の役割を果たすガラスは、ガラス言ってもただのガラスじゃない。俗に言うマジックミラーというやつだ。
 ガラスを挟んで明るい空間と暗い空間がある時、暗い空間から明るい空間を覗くことはできるけど、逆は光の反射とかで見えにくい……みたいな原理だったはずだ。明るい外と暗いホール内。外から中は覗けない。彼に私は見えていない。
 多分、外のあの男子はこの建物を鏡代わりに使っているのだ。
 何となく、私は彼に近づく。幾ら近づいたって、私と彼の間にはガラスがある。それは絶望的な断絶だった。
 最初は、この人は一体何をしているんだろうと思った。音は小さくしか聴こえないけど、スピーカーが置いてあるし、曲に合わせて踊っているのかな。
 私はなんとなく、ガラスの前に体育座りして彼の踊りを眺めた。人と関わるのが苦手だった私だけれども、彼のダンスは不思議といつまでも、いつまでも見ていられた。

 秋が深まるにつれて、彼が来る日も増えた。私はその度にガラスの前に座って、彼が踊るのをただじっと眺めた。
 来る日も来る日も彼は踊り、私は地べたに座ってそれを観た。ここは一応コンクール発表とかをする用のホールだから、これだって間違った使い方じゃないんだよねとふと思って、少し笑った。客席とステージの向きがちょっとズレているだけで、これも立派なコンサートだ。
 そんな日々を続けていくうちに、私は無意識のうちにダンスの内容を覚えていることに気が付いた。彼の練習に付き合って、何十回何百回とダンスを見ていれば当たり前だったのかもしれない。
 気が付けば頭の中でシミュレートできるくらいになっていた。
 そして十月のある日。
「私も、踊ってみようかな……」
 そう決意して立ち上がった時、頬が熱かったから、多分顔は真っ赤だったと思う。ホールが薄暗くてよかった。それ以上に人がいなくてよかった。
 最初は見様見真似だった。動きもぎこちなくて、恥ずかしさも捨てきれなかった。だけど、ガラスの向こうの彼の、あまりにも一生懸命で、それでいて楽しそうな表情に、迸るオーラに、私は魅了された。
 私もあんな風に踊ってみたい。あんな風に笑ってみたい。
 絶望だらけだった私の人生に、一筋の希望。
 こんな私でも何かに一生懸命になれるかな、とそう思った。
 ガラスを挟んで向かい合わせに、私たちのペアー・ダンスは始まった。……きっと向こうはそんなこと、知りもしないだろうけど。


 いよいよ文化祭は間近だった。俺の所属している『自由音楽部』は文化ホールのステージ発表にエントリーしている。この部活に所属して以来初の大舞台。気は抜けなかった。
 ステージでやるのはバンドみたいなものだ。だが、普通にボーカル、ギター、ベース、ドラムを揃えたんじゃ『自由音楽部』の名が廃るというものだ。そういう正統派の音楽は、軽音楽部辺りに任せておけばいい。
 俺たちの演奏は相当に奇抜だった。まずボーカルはスキャットで歌う。スキャットというのは歌詞ではなく意味のない音で歌うやり方だ。人の声の音色を楽器として用いるような歌い方。
 演奏陣も劣らず奇抜だ。ギターの代わりにヴァイオリン。ベースの代わりに電子ピアノ。ドラムの代わりに各種太鼓。
 相当にふざけた陣容だが、これでちゃんと様になるのだから不思議だ。……しかし自由音楽の意味をはき違えている気がしてならない。
 そしてこの俺の役割と言えば、ダンサーだ。最早、音楽と関係あるのかないのかあやふやな立場。
 生演奏で踊るのは結構大変なことだ。というのも、バンド演奏というものは演奏速度がその時々によって変化していくからだ。前面で踊る俺はそれに臨機応変に対応することが求められる。だからまず基礎を知り尽くすことが大切だった。そのための練習も欠かさずやってきた。
「さて、今日も今日とて練習するか」
 そろそろ追い込みを掛けるべき時期だ。最近は毎日のようにこの場所に来ている気がする。
 ホール裏の裏庭。ここもすっかり馴染みの場所になってしまった。
 いつものようにプレイヤーを操作し、曲を再生する。そして流れだした音楽を聴いて、俺は思わずにやっとした。
 それは白と黒をモチーフにした曲だった。俺がずっと前から好きだった曲。
『自由音楽部』のステージ発表は全三曲だ。初めの二曲は生演奏で披露するのだが、最後の一曲、三曲目は録音した音源を使用する。
 何故三曲目は演奏しないのかというと、練習時間が足りなかったのだ。俺たちはオリジナルの曲を作る技術がないため、既存の曲をコピーして演奏するのだが、正規の楽器を使えないのがとんでもない負担になっていた。
 そのため、半年間の練習で、何とか演奏できると判断できた曲は僅か二曲。その二曲も、まだまだ練習しなければならない状態だった。
 だが文化祭のステージ発表で一団体が与えられるタイムテーブルは十五分。一曲分が余ってしまう。もちろん早く切り上げるのも有りなのだが、どうせなら何かしたい。
 そこで思い付いたのが、ダンスをメインにするという手だった。
 確かに俺には三曲分のダンスを覚えるキャパシティがあった。それに曲の演奏は出来なくとも、歌唱の部分をボーカルがおこなえば、一応音楽をやっているという体裁も整えられる。
 そしてダンスメインの曲に選ばれたのが、というか俺が選んだのがこの『白』と『黒』の曲だった。
 惜しむらくは、この曲は『白』と『黒』の衣装を着た二人で踊るのがベストというところだろうか。残念ながら他のメンバーはダンスを覚える暇が全くなかった。ただでさえ二曲の演奏の質を高めるのに忙しいのだから、これ以上は望めない。
 だけど一人でもやって見せる。俺が全力でやれば、必ずこの曲の魅力は伝わるはずだから。

 気が付けば、空はだいぶ暗くなっていた。まだこんな暗くなる時間じゃないだろうと思ったが、もうすぐ冬なのだ。夜の来訪が早くなるのも当たり前か。
 あともう一回この曲を踊って終わりにしよう。そう思ってプレイヤーの再生ボタンを押して向き合った目の前のガラス。
「えっ……」
 そこに映っていたのは自分の姿じゃなかった。俺がいるはずの場所には、女の子が立っていた。線の薄い輪郭。おさげの髪。華奢な身体。
 流れ出る音楽。無意識のうちに身体が動く。それに合わせて、全く同じ動きをする女の子。俺はどうしようもなく混乱した。
 俺は女の子になっちまったのか? いや違うだろ、だって見ろ、鏡に映ったあの子は女子の制服を着ている。スカートだって履いてる。踊りながら自分の足元をチラリと見る。学ランだ。
 あれは、俺じゃない。
 俺の動きに合わせて踊るその様は、どこか楽しそうで、でもどこか寂しそうでもあって。
「君は、誰なんだ……?」
 疑問の答えなど出るはずもなく、ただ鏡合わせの俺たちは向かい合って踊る。彼女と俺の動きは、ほとんど一致していた。本当に鏡を前にしているみたいで、不思議な気分だった。
 でもどんなダンスも終わりは訪れる。
 ついに静かになった空間で、俺は意を決して歩き出した。


 魔法は解けてしまったのだ、と私は思った。
 油断していたのだ。マジックミラーに守られて、絶対に自分が安全だと思っていた。だから見過ごした。冬が近づくにつれ、秋が去るにつれ、辺りは暗くなっていくことを。
 マジックミラーの効果は単純で、明るい側から暗い側を覗くことはできないというもので。なら外が一定以上暗くなってしまえば、その効果はなくなってしまうのに。
 彼は、ガラスの向こうにいる私に気付いてしまった。彼の人となりは知らないが、普通なら怒るだろう。もうこの日々はお終いだ。
 ガラスに近づく彼に全てを悟った私は、ガラスに寄り掛かって座った。
 逃げ出す気にもなれず、かと言って面と向かって顔を合わす気にもなれなかった。どうしようもなく臆病だ、私は。
 だけど、彼は何もしなかった。何も言わなかった。ただそっと座って、私と背中合わせに座っただけ。
 戸惑ったけど、私はそれを受け入れた。ああ、今私たち、背中合わせに座っているんだ。背中に触れるのは冷たいガラスだけど、何だか温かい背中を感じる。
 言葉もなく、ただ鏡合わせの私たちはじっと呼吸をしていた。
 どれくらいそうしていただろうか。不意に、彼が言った。
「随分上手だったけど、もしかしてずっと前から?」
 私はこくりと頷いて、それから動作をしても背中合わせなんだから彼には見えないんだと気が付いた。
「うん」
「そっか」
 そして、またしばらくの沈黙。
「ダンス、楽しい?」
 その問いの答えは、決まりきっていた。
「……楽しい」
「じゃあ、また明日」
 その声に、私は返事はしなかった。ただ、小さく頷いた。



 文化祭当日。
 ホールはカーテンを全て閉められ、照明も全て切られていた。舞台照明だけが眩しく光っている。
 俺と仲間たちは舞台裏で準備をしていた。振り付けを確認するだけの俺はまだしも、他のメンバーは楽器の調整などに忙しそうだった。
 柔軟運動をしながら思い出すのはおさげの女の子のことだった。思い返してみても、踊りのキレははっきり言って俺と遜色ないレベルだった。
「そろそろ私たちの番が始まるって」
 ボーカルの子がそう言って、俺は頷いた。何にしたって悔いは残したくない、と思った。
 舞台照明が眩しい中、俺たちはステージに上がった。客席は暗いけど、よく分かる。満員だ。配置されている座席はすべて埋まっていた。
 メンバーが自己紹介をしていく中、俺は客席に視線を巡らせていた。あの子は今日、ホールに来ているだろうか。


 スポットライトに照らされた彼を、隅っこの席に座って眺めている。
 彼らのステージは、何というか奇抜だった。言い方を変えれば新鮮で、観客たちもよく盛り上がっていたと思う。
 だけど私は、感嘆するというより、ただ羨ましかった。ステージ上で踊る彼が、スポットライトを浴びる彼が、ただここに座っているだけの私と住む世界が違うみたいで。
「もし貴方と会わなかったら」
 こんな苦しい気持ちにはならなかっただろうけど、祈ったって過ぎたことはどうしようもない。誰に気付かれるわけもなく、私はただ暗がりの中で舞台を見続けることしかできないのだ。
「私がいなければ」
 居ても居なくたって変わらない私が消えてしまえれば、それが一番だって分かってるのに。惨めなんだ、苦しくって堪らないのに、それなのにずっとずっと消えないままだ。
 叶えられない希望なんて忘れ去ってしまいたいのに。
 それなのに私はあの人の隣で踊りたいとか、そんなことを思ったりしている。
 二曲目が終わって、三曲目が始まりそうになった時だった。
 ステージ上の彼が言う。
「ちょっと待ってくれ。まだ役者が揃ってねえ」
 ざわざわ。会場がにわかにざわつく。
「え、ちょっとどういうこと?」
 とボーカルらしき人が君に詰め寄る。二言三言何やら会話を交わして、それから何と彼はステージから客席へと飛び降りた。
 いよいよ喧騒が大きくなる。一体、何をしているんだろう。
 ……。
 ……なんで。
 彼は、私の席の前で立ち止まっていた。
「ちょうどよかった。この曲、『白』と『黒』の二人で踊らなきゃいけないんだよ」
 白いYシャツ姿の彼が言う。急に何を言っているんだ、この人は……。
「無理だよ、私」
「無理じゃないさ。ほら、初めて会話した日、最後に踊った曲だ。大丈夫」
 振り付けは覚えている。だけど、いきなりステージに立つのは抵抗があった。
「それに私、衣装が……」
「黒ければいいんだ。制服、黒いだろ」
 そして彼は私に向けて手を差し出した。
「一緒に踊ってくれるか」
 私は、にべもなく断ろうと思った。そもそも私、目立つの苦手だし、大勢の人に見られるなんて怖いし、ダンスだって自信があるわけじゃないし……。
 言い訳をたくさん並べていくうちに、私の唇は勝手に動いていた。
「私、そっちに行ってもいいのかな……」
 思考とは裏腹の言葉が飛び出していて。しまった、と思った時にはもう。
「そんなの、今さらだろ。ずっと一緒に練習してきたんじゃないか」
 その言葉を聞いた瞬間、私の目から熱いものが零れ落ちて。
 私が、臆病だったんだ。
 私が、私を決めつけていたんだ。出来やしないって、怖いって、未来なんてないって。
 勝手に一人で絶望して、勝手に一人で希望を羨んで。
 全部、私が一歩を踏み出さなかったからだ。
 でも、今はもう、一人じゃないから。
 一人で良いなんて、もう強がらないよ。
 差し伸べられたその手を力強く握って、私は立ち上がった。
 ホールは謎の拍手に包まれて、私は頬を赤く染めた。彼の腕に引かれて客席の間を走る時、ホールが薄暗くてよかったと思った。でも、ステージに上がったら、そうも言っていられないんだろうな。
 半年間私を守ってくれたこのホール。この場所で彼と一緒に踊るダンスは、音楽は、ステージは、私に勇気を与えてくれますか。





・学園物! 男の子と女の子!
・ダンス!
・文化祭のときの曲とガラス張りの場所から着想
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