悪魔の証明
                          ウェル

「この俺を起こした者は貴様か――?」

 何世紀も昔、神の怒りを買い、粗末な壷へと封印された悪魔がいた。
 その壷は、滅多に人の寄り付かない僻地の、そのまた簡単には見つからない洞窟の隅っこの方へ押しやられ、悪魔は二度と現界せしめることは不可能だろうと、半ば諦め切っていた。事実、今日まで誰一人としてこの洞窟を訪れる者は居らなかったのだから。
 しかし、ついに時は満ちた。今、薄暗い洞穴には驚愕に顔を歪ませた貧相な男が一人、悪魔の手前で佇んでいる。
 男は厚着こそしていたが、ところどころが雪にまみれ、頬は扱け、無精髭と青白い肌が彼の状態をありのままに表していた。
 どうやら、男は極度の貧困層の人間らしい。悪魔は彼の様子からそう推測した。

「この俺を起こした者は貴様か――?」

 悪魔は低い声でもう一度そう問うた。彼は、暫く返答がないことにも全く腹を立てなかった。むしろ、この状況をつぶさに楽しんでいるとさえ言えよう。
 何せ、大よそ四百年ぶりに自由を得たのだから、悪魔は今、大変機嫌が良かったのだ。
 そうでなかったら、今頃男は四肢を引き裂かれ、目玉をくり貫かれてから達磨のまま洞窟の外へ放り出されていたに違いない。
 洞窟の外は、大変な嵐に見舞われているらしかった。洞穴さえも凍えさせるこれは、豪雪の類であろう。入り口がガラ空きになっている空洞では、寒さなど凌げるべくもない。
 その証拠に、男は今なおしきりにカチカチと歯を噛み合わせている。
 その男の口が、顎の外れた愚夫のようにカクカクと動いた。どうやら何かを喋ろうとしているらしい。
 悪魔は底意地悪く唇をひん曲げて、男の言葉を待った。

「……そ、そうです。私があなたを起こしました」

 それを聞いて、悪魔は静かに鼻を鳴らした。端的にいえば、期待ハズレだった。
 もしここで、興を惹かれるような口説の一つも言おうものならば、褒美の一つでも賜ったものを。
 悪魔が冷めた表情で、男を見下ろしていると、男はオロオロと嘯いた。
「神様、どうか私めに救いをお与えください」
 たかが凡百の愚図の分際で、この俺様に物乞いの真似事か――。
 悪魔は一瞬、きゃつの首を捻り切ってくれようか、と思案したが、思い留まった。
 こいつは、曲がりなりにも俺様をあの忌々しい壷から解いたのだ。いくら下等な者であろうとも、殺すのだけは勘弁してやろう。
 それに、俺様の事を神様だと思い込んでいるのも面白い。
 そうだな、少しばかり、遊んでやろうか――。

「良いだろう。選ぶが良い。
 金貨一万枚か、紙幣一万枚、二つに一つ」

 そうして悪魔は楽しげに破顔した。それはおおよそ見るもの全てがその醜さに顔を歪ませるような笑みだったが、男は例外だったらしい。
 彼は笑顔で、「紙幣でお願いします!」と即答した。
 しかし、悪魔が与えるのは恐怖や絶望であり、愉悦や希望ではない。ゆえに、悪魔はもちろん男を幸せにさせる気など毛頭なかった。

「そうか、紙幣一万枚か。よかろう、これで貴様は大金持ちとなるだろう」

 ケラケラと嘲笑いながら、侮蔑の眼差しを込めて、悪魔は男を見やった。
 男の周囲には、どこから現れたのか、大量のジンバブエドルが山のように積もっていた。この紙幣は、今や紙屑同然の価値しかない、文字通りのゴミである。
 ちなみに男が金貨を選択した場合は、持ち運べない程重たい金貨で入り口を塞いでやる算段であった。
 悪魔は呆然とした表情の男を見ていやらしく唇を歪ませると、くるりと一回転して姿を消した。

 さて、余談であるが、悪魔は古来より悪戯を好む種族として考えられてきた。しかしこの観念はある意味で正しく、またある意味で間違っていた。
 悪魔の生命力の源となるのは、自身に対する恐怖、憤懣など負の感情なのである。悪魔は人々を恐怖のどん底へ叩き落し、忌諱の対象とならなくてはならない。悪戯を好むというよりは、そうしなければ、満足に生きていけないのだ。
 ならば、悪魔はいやいやながら人々を突き落としていたのかというと、やはりそうではなかった。悪魔は飽くまで、自身の欲望に沿って人々を苦しめている。そこに同情の余地など欠片もない。

 悪魔が去ってから、洞窟に一人取り残された男は、数秒間時が止まったように身動き一つしなかった。
 しかし、ピクリと眉が動き、ほぉうっと息を吐いてからの彼の豹変ぶりと言ったら、悪魔がその様子を見ていていたら驚いて目を剥いたに違いない。
 男は狂喜していた。何故か。
 彼は、決して貧乏人などではなかった。
 むしろ、長年の功績で巨万の富を蓄えている権威者であった。当然の如く、金には一切困っていない。
 男は世界各地の秀嶺を踏破する事を目標としている、生粋の登山家であった。
 エヴェレスト山さえも登攀し切った彼の次の目標は、『高さ』ではなく、『過酷さ』への挑戦だった。
 それは湖さえも凍りつくような極寒の地の、真冬の山である。
 猛吹雪の中、山腹まで歩き詰めたのは単に彼の実力と、長年の経験の賜物であろう。
 しかし、そこで吹雪は猛烈に勢いを増していき、男はとうとう道を見失い、偶然発見した洞穴へと避難したのである。
 この地では突発性の吹雪は珍しくない。その多くは、一昼夜で止むようなものばかりであった。
 しかし、男のリュックサックの中には、食料やライターはあったものの、燃やすものがなかった。
 リュックサックは下山の際に必要となるし、服を脱ぐわけにもいかない。
 そうして、凍死寸前のところで、悪魔が現れたのだ。
 ジンバブエドルに価値のないことくらい、男も重々承知である。
 しかし、仮にも紙幣であるそれは、燃やすには丁度よさ過ぎる素材であった。
「ありがとうございます、神様……!」
 男は有りっ丈の意思を込めて、感謝の気持ちを念じたのであった。
                            了
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