あるところに、理性を宿したオオカミがいました。理性を持つがゆえに優しさを持ち、それから教養があり、他のオオカミたちのように悪さをすることも出来ませんでした。
群れの仲間たちには奇異の目で見られ、ケモノであるゆえに人里に下ることも叶わず、彼はただ孤独でした。
いつしか彼は群れを離れ、一匹狼になりました。
なので、彼は町の郊外に小屋を造って、そこでひそひそと暮らしていました。週に一度、布を全身に巻きつけて町へ出向く以外、ずっと独りで本を読んでいました。
叶う事ならば、ニンゲンになりたい。
どうして、ケモノの身体でニンゲンの心を持って生まれてしまったのだろう。
とても理性的なオオカミは、ひたすら苦悩していました。
――そして。
「私は悪い狼で、貴女はお姫様だから」
「一緒には居られないよ」
オオカミがそう言うと、彼女はただくすくす笑ったのです。――
『ヒトリ』
町の郊外には滅多に人が寄り付きません。町から一歩外に出てしまえば、そこは悪いケモノが闊歩する危険地帯だと言われているからです。
人間たちは、城壁に囲まれた町の中、何かに怯えるように暮らしていました。町は、城壁は、まるで檻のように人々を閉じ込めます。
出ようと思えば何時だって出られるけれど、誰だって出ようとしない。そんな心の檻でした。
ですので、オオカミは郊外では誰とも出会わないまま、幾年も過ごしてきました。食料や生活必需品を揃えるために週に一度だけ町へ下る以外は、誰とも会いません。
でも、今日はどうやら違ったようなのです。
オオカミが自宅でいつものように読書をしていると、不意に扉がノックされました。忙しく、一度、二度、三度。コンコンコン。
何せ、今まで一度もお客さんなど来た事がないので、オオカミは驚いて、椅子から転げ落ちてしまいました。落とした本を慌てて拾い上げて、扉の前に立ちます。
もしかしたら、ついにお城から衛兵がやって来たのかもしれません。ケモノは危険ですから、弱いニンゲンの手によって殺されてしまうのです。
身を守るモノなんて一つもなくて、オオカミはただ惑ったように立ち尽くしました。ドアノブに触れた毛むくじゃらの手は、震えていました。
だけど、外から聞こえてきたのは、女の子の声だったのです。
* * * *
「こんにちは、私はオオカミです。貴女はいったいどこからやってきたのですか?」
それはとても奇怪なお茶会でした。毛むくじゃらのオオカミと、ブロンドの髪の少女が一緒にお茶をするだなんて、そんな突飛な話はどこに行っても聞けなかったに違いありません。
丸い机を挟んで座った独りと一人は、紅茶とカップケーキを摘みながら目を合わせます。
少女は、オオカミを見ても悲鳴を上げませんでした。それどころか、小屋の中にずかずかと入りこんでは、お菓子を見つけて「私、これ食べたい」とねだったのです。
普通ならオオカミに食べられてしまうと思って逃げ出すところなのに、どこか物怖じしない女の子でした。
「お城から来たの」
ブロンドの少女は、快活に答えました。その振る舞いはおてんばで、とてもおしとやかな姫には見えませんでしたが、高級そうな洋服から見るに、やっぱりお姫様なのでしょう。
「そうでしたか。なぜ遥々郊外まで来られたのですか?」
こんなところを誰かに見られたら、自分はきっと処刑されてしまうだろうな、とオオカミは思いました。
「外の世界を見たかったから、抜け出して来たのよ」
少女を突き動かしたのは、つまるところ好奇心でした。そして、言葉を話すオオカミは、好奇心の対象でした。
「でも、貴女はここに居てはいけませんよ。すぐにお帰りなさい」
オオカミは優しく、諭すように言いました。
でも、少女は反抗するように口を尖らせました。
「どうして?」
そら来た、とばかりにオオカミは言いました。
「私は悪い狼で、貴女はお姫様だから、一緒には居られないよ」
それはもう、絶対的な壁でした。城壁に隔てられた内側と外側の、種族の壁です。
「あら、私はそんなこと気にしないわ」
でも少女は、ただくすくすと笑っただけで、気にしないと言うのです。
それから、どれだけオオカミが言い聞かせても、少女は頑なに聞き分けようとしませんでした。ただ優しく笑って、ただ優しく言葉を紡ぐのです。
今まで、ニンゲンと録に会話をした事がないオオカミはすっかり困惑してしまって、ニンゲンとは不思議なものだと思いました。
夕方になって、また明日も来ると言い残して、お姫様は檻の中へと戻っていきました。心なし、その背中は悲しそうで、寂しそうで、触れてしまえば崩れ落ちてしまうようでした。見送りたいけど、見送れません。
私はケモノで、貴女はお姫様だから。
オオカミは心の中でそう呟きました。そして少女の後姿が見えなくなるまで、小屋の前でじっとその姿を見守り続けました。
* * * *
それからお姫様は、毎日のようにオオカミの家を訪ねるようになりました。来る日も、来る日も、城の警備を潜り抜けては、オオカミに会いに来るのです。
「ねぇ、オーカミはどうしてそんなにお金を持っているの?」
シフォンケーキを頬張りながら、少女は尋ねました。オオカミは、働いているわけでもないのに、お金を沢山持っていたからです。
オオカミは少し得意げに、「昔、世界中を旅していたんだ。その時、財宝を見つけてね」と、その時の武勇伝を語り始めました。
ある時は、世界の始まりの樹で、
ある時は、絶対の闇が支配する洞窟を、
ある時は、星空に最も近い丘の上。
それはそれは、沢山の冒険をしていたのです。
でも、独りでする旅はとても退屈でした。結局オオカミはどんな困難なんかよりもよっぽど辛い、孤独に負けたのでした。
それからというもの、少女はオオカミによく冒険話をせがむようになりました。オオカミの話は、未知の世界の事ばかりで、少女は大変興味を持ちました。
独りと一人は、多くの時間を共有しました。少女は昼過ぎに来ては、夕方に帰っていきます。オオカミは、毎日お菓子と紅茶を用意して、少女の姿を待ちました。
もし彼らの事を見ている人がいたら、まるで恋人のようだと言うでしょう。オオカミは孤独から救ってくれるお姫様を、少女は窮屈な檻の世界を教えてくれるオーカミを、それぞれを必要としていました。
だけれど、独りと一人はあくまで独りと一人でした。オオカミはケモノで、少女はお姫様なのですから、それは高い壁として、あるいはまた深い溝として彼らを決して近づけさせなかったのです。
* * * *
やがて少女がオオカミを訪ねるようになって、半年が経ちました。しかし、そんな生活を続けていれば、王様が愛娘の奇行に気づいてしまうのは時間の問題だったと言えるでしょう。むしろ半年も持ったのは、運が良かったと言えます。
王様は毎日城を抜け出し出掛ける娘を不審に思い、衛兵に尾行させる事にしたのです。いつものようにオオカミの家に入っていったお姫様を、衛兵二人はしっかりと見届けました。その家を窓から覗けば、お姫様と、恐ろしいケモノが会話しているではありませんか。
きっと悪い狼に騙されているのだ。そう思った衛兵達は、急いで城に戻って、王様に報告しました。
王様はそれを聴いて驚いて、それから怒り狂って、衛兵を二十人も集めて、狼を討伐するように命じました。
いつものようにお茶を楽しんでいた少女とオオカミは、相も変わらず、未知の世界についての会話をしていました。
少女の外の世界への憧れは、オオカミもよく理解していました。
理解はしているけど、それはとても危険なものだとも思っていました。自分の話で満足してくれれば、それが一番良いと思っていますが、少女の冒険欲はどんどん強まっていく一方でした。
そんな折。
不意に、外から怒声が聞こえてきて、オオカミと少女はびっくりしました。オオカミは窓から身を乗り出して外の様子を探りました。すると、衛兵が鉄砲を抱えて、家をぐるりと包囲しているのが見えました。
オオカミは、少女と自分の関係は今日が最後になるだろう、そして、自分きっとは殺されるだろうと思いました。
オオカミは、少女に外の事を伝えました。そして、初めて出会った時のように、優しく語りかけ、諭しました。
「姫、貴女はもう戻らなければならない。もうここには来てはいけないよ」
「どうしてそんな事を言うの」
「私は悪い狼で、貴女はお姫様だから」
そう言うと、少女は悲しそうな顔をしました。
「私は、一度だってそんな事を気にした事はないのに。だって、悪いケモノだったなら、とっくに私を攫って闇夜に消えてしまっていたでしょう」
オオカミは、これまでの事を、思い出しました。
沢山話した事、沢山過ごした事。
孤独なオオカミが、ここまで誰かと一緒に居たのは、初めてでした。
「もっと色んなところに行きたい。お城に縛られて、大人に決められた人生を歩かされるなんて、私、いやなの」
そう言って、少女はオオカミに背を向け、しゃがみこんでしまいました。うずくまった少女を見て、オオカミはやれやれと首を振りました。
冒険話に目を輝かせたお姫様は、だけどこのままお城に戻った方がいいのだ。
そのほうが幸せなのだ。
なぜなら、少女はお姫様だから。
お姫様は、お姫様で在らなければならない。
たとえ、低俗な私が犠牲になったとしても。
だけど、それは本当にそれが少女の幸せなのだろうか、とオオカミは思いました。
お姫様だから、お姫様らしく在れ、と私が言うのか?
誰よりも、ケモノらしくなかった、オオカミらしくなかったこの私が……。
その時、うずくまった少女の声が、耳に届きました。その声は、悲しみに濡れていました。
「助けて……」
振り返って、オオカミはようやく気づいたのです。
少女は、少女である事に。お姫様である以前に、一人の少女である事に。
一種の気の迷いかも知れません。明日になれば、後悔するかも知れません。
それでも、オオカミは、放って置けなかったのです。
少女が唇をかみ締めて、それでも流れてしまったその涙を、ニンゲンの心を持つ一人のオオカミとして、放って置けなかったのです。
逆に考えよう、とオオカミは思いました。
お城で暮らすのが「お姫様」であるのならば、そのお姫様を攫って消えてしまうのが「悪い狼」の役割ではないか、と。
オオカミが後ろから少女の華奢な身体をそっと抱きかかえました。
「なら、私と一緒に、この檻から出てしまおう」
そう囁くと、少女は問いかけました。
「急に、どうして……?」
「決まっているさ。私は悪い狼で、貴女はお姫様だから」
――悪いケモノは、お姫様を攫うって昔から相場が決まっているのさ。
これから、沢山辛い事があるかも知れない。特に、お姫様だった君はたくさんの困難違いない。
だけど、独りと一人ではなく二人なら。二人なら、どんな困難だって乗り越えられるに違いない。
少女は涙を拭うと、ようやく笑みを浮かべました。オオカミもまた笑って、言いました。
「さあ掴まって。遠く遠くまで連れ去ってしまうから」
オオカミはしゃがむと、背中を少女に差し出しました。
少女は素直にそれに従います。ふかふかの毛が、少女に安心感を与えました。
衛兵たちが扉を蹴破ろうとしているのか、激しい音が室内に響き渡ります。猶予はもうあまり、ありませんでした。
「しっかり掴まって!」
「あ、待って!」
少女が傍らの棚の上にあった何かを引っ掴み、その次の瞬間にオオカミは駆け出しました。
窓を突き破り、勢いよく外へと飛び出します。割れた硝子の破片が辺りに散乱しました。衛兵たちは驚いて目を丸くしています。
ですがすぐに「撃て、撃てー!」と一人が叫んで、衛兵たちは一斉にマスケット銃を構えました。
でもその時にはもう遅い。四足歩行に移行したオオカミは風よりも速く衛兵の囲いを突破し、そのまま遠くの森へ向かって走り出しました。
森の中に辿り着いた二人は、一息つきました。
「さて、これからどうしよう。まずは生活するための資金を溜めないと……」
財産はすべて置いてきてしまいました。しばらくは食うにも困るかもしれません。すると、
「オーカミ。私、これ持ってきたよ」
と言って、少女は巾着袋を一つ掲げました。ジャラジャラと音が鳴ります。
「それは私の貯金じゃないか……まさか」
「うん、必要になると思ったのよ!」
オオカミは呆れて笑いました。思った以上に、この子は強いのかもしれない、と。
「ねえ、これがあれば、すぐに冒険ができるかな?」
目を輝かせてそう聞く少女を、オオカミは大きな瞳で見ました。
「できるさ。できるとも」
そして二人は、今まで話した数々の世界を、その目で見る事になるのでしょう。一匹の心優しいオオカミと、一人のおてんばな少女の物語は、これから始まるのです。
また、この世界のどこかで。
了
・童話調と喋る動物
・優しさと素直さ
・物語の始まり