『一面に広がる砂漠の情景。その中心には深い蒼色をしたオアシスがあり、その岸部に沿うように、人口五百人ほどの小さな村が息づいている。
 人々は夢を見ない。誰一人夢を見ない。見たこともなければ、このまま見ることもないのだろう。極稀に夢を見たモノもいたが、例外は例外として認識されず、矛盾を孕んだ存在として罰せられた。その対価は死だった。存在の抹消を以って償わなければならない。
 人々はその意味を推し量ることも、疑うこともしなかった。それが、三百年も前から今に至るまで続いた慣わしだったからだ。生まれ落ちるその瞬間から現在に至るまで、そうして生きて来たのだから。
 疑う余地もない。それ以外を、知らずにきたのだから』

      ◇    ◇    ◇

「夢を見たら死んでしまうから、絶対に見るんじゃないよ」
 いきなりそんなことを言って、私にいったいどうしろと言うのだろう。そもそも夢ってなんだ。夢。反対から読むとめゆ。ドリーム。ううむ、分からない。……なんて感じに茶化して返す私ではなかった。
 あれはいつだっただろうか。物心が付いてすぐだったと思うから、多分、四歳か五歳か、その辺だったと思う。
満月が眩しい夜だった。外では風が恐ろしい唸り声を上げながら駆けっこしているものだから、私はなかなか寝付けなかった。そこで、お父さんが傍らの椅子に腰かけて、私の頭を優しく撫でていてくれたんだ。
 でも、このお父さんがまた変わり者で(もちろん当時はそんなふうには思わなかったけど)、ただでさえ怯えている私を、さらに怖がらせようと画策したりしていた。
 今回もそうだったようで、彼の口から飛び出したのが先ほど述べた通りの言葉だったわけだ。
 さて、そうなると私はいよいよ泣きべそをかき始めたものだから、お父さんは慌てて取り繕った。
「でも、大丈夫だ。サナは良い子だから、きっと獏が助けてくれるよ」
「獏ってだあれ」と鼻を啜りながら聞いた。
「悪い夢を全部喰べてしまうんだ。一種のご加護だよ。だけど、悪い子だと獏は守ってくれないからね。良い子でいるんだぞ」
 それを聞いて、私は安心して瞼を閉じた。私は自分を良い子と信じて疑わなかったし、そもそも夢が本当にあるという実感も沸かなかったからだ。
 ところがこの夜、私は夢を見た。気がつけば私はコバルトブルーの色をした深い海底に揺蕩っていたのだ。私は瞬時に、「これが夢なんだ」と理解した。その瞬間、全身を絶望に似た鈍痛が襲い、心は陶器の破片で切り付けられたように鋭く痛んだ。
 遠くで蒼白な女性が佇んでいた。女性は哀しそうに歌を謡っている。女性の髪がゆらゆら揺れる。女性自体は綺麗だが、その髪はおどろおどろしい闇のようだ。
 夢を見てしまったことがただただ怖くて、水中でもがき続けた。全身に纏わりつく液体は、まるで私の息の根を止めようとしているみたいだった。
気が付けば、ベッドの上でがむしゃらに暴れている自分がいた。ベッド際の窓のカーテンの隙間から、陽光が滲み出ていた。ベッドは濡れていた。パジャマも濡れていた。ぐずるように泣いた。
 でも、私は生きていた。
 小さな頃に聞いた事柄は、心身が発達した後でも、根深いところに楔を打って、痛みを与え続ける。私にとってみれば、その事実こそがまさに悪夢と言って差し支えなかった。

      ◇    ◇    ◇

 あの広い空の向こうから覗いたこのオアシスは、白銀の絹の中で瞬くサファイアのように映えるだろう。私たちはずっと昔から、このオアシスの恩恵を享受しながら暮らしてきた。
 ここにいる限り、私たちが水に困ることはなかった。そればかりか、オアシスの周囲に点々と生えているヤシの木は、重要な食糧源になっている。まさしく、神がもたらした恵みと言えよう。
 見上げると深い青空が、夏の到来を知らせてくれた。日差しは滾るように暑く、背景のように佇む青に対し白の割合は一割以下でしかない。
 遠くの天球をハゲタカの群れが、泣き喚きながら通り去った。それをまるで、夏の声のようだと思った。
 気持ちのいい朝だ。両手を組んで、背中を反らせて大きく伸びをすると、日に照らされた砂のように白いガラビアが風にひらひら揺れて、風通しの良い服の隙間を縫って、心地いい風が全身を撫でた。
 それから、入念にストレッチを施して、身体の節々を解していくと、深く夏空を吸い込んで、服を着たまま勢いよく湖に飛び込んだ。
 飛沫を散らせながら水面を貫くと共に、淡い色をした液体が私の体躯を包み込む。泡沫の泡が旋律のように口から零れ出す。ガラビアは水を吸ってにわかに重くなったが、気にも留めず、深く深く潜っていく。
 いつか聞いたのは、村にまつわる伝説の一つだった。このオアシスの底に、『夢』を見ることが出来る術があるらしい。
 村には、幾つもの言い伝えがあるけれど、どれもこれも昔の話で、確かめられないことばかりだった。だけど、これだけは違う。オアシスは今でも存在していて、行こうと思えば行ける場所なのだから。
 普段、言い伝えだの伝承だのを盾に、私たち子どもを躾けようとする大人たちにはほとほと嫌気がさしていたので、私はオアシスの底に何もないことを証明して、大人たちに一矢報いてやろうと考えていたのだ。
 いや、正直に言えば、それだけではなかった。私は心の底のどこかで『夢』の存在を否定したかったのだ。かつて見た夢が、じつは何かの間違いだったと証明出来さえすれば、幼少から囚われているこの呪縛から逃れられるのだから。
 ところが、どうしてなかなかオアシスは深いようで、かれこれ三ヶ月以上は挑戦しているのに、一度も底には到っていない。どれだけ深いのだろうか。水深百メートルはあっても不思議ではない。水面はそんなに大きくないだけに、予想だにしない事態だった。
 大人たちは湖の深さを知っているだろうか。いや、多分知らないのだろうな。
 しなやかに水を掻いていく四肢は、オアシスの深部を目指して緩やかに潜っていく。夜の砂漠のように凍えた水が熱を奪い、光さえも呑み込んでいる。酸欠になって、薄れつつある視界の先で、何かが煌めいた気がした。
 そして、耳に届くのは、悲しい旋律。きっとローレライだ。ローレライが、謡っているのだ。何の根拠もないけど、そう思った。手を伸ばそうと努力するも、指先は水を掻くだけで、どうにもならない。
 そして次の瞬間、力を失った私の身体は、急速に浮上を開始した。

      ◇    ◇    ◇

「ブバルディアの花が咲いたんだ、北の砂丘の上で」
 村に戻った私をいの一番に見つけたアルが、抑圧のない、淡々とした口調でそう言った。それでも、いつもより少しトーンが上がっている気がする。珍しいことだ。
 アルは、私と同い年の十七歳のくせして、精神年齢はその半分くらいしかなさそうな男だった。手入れのなされていない癖っ毛のひどい、やや藍色をした髪が特徴だ。
 天然なのか、考えていることは一つも理解できないし、突拍子もないことばかり言ってくるし、今日だってどうして、ブバルディアなどという、聞き覚えのない花の話を私にするのだろう。
「ついておいでよ。とても綺麗なんだ」彼は私に向かって手を差し出した。
 私は下を向いて、自分の状態を確認した。湖に潜ったばかりで、全身ぐしょ濡れ、水滴がひっきりなしに滴っていた。おまけに長髪が祟って、髪の毛は水気を帯びてだらしなく肩や腕に纏わりついている。これではまるで昆布お化けか何かだろう。
 日差しが強いおかげで、乾くのは早そうだが、風邪を引きそうだし着替えたいなぁ、というかそもそも花になんて興味ないんだけどなぁ、なんてことを脳内でぐるぐる思案していると、アルはお構いなしに私の腕を掴んで、いそいそと歩き出した。
「ちょちょちょ、ちょっと待って!」私は喚声を上げる。
「なに。どうしたのサナ」振り返らずに、しかも立ち止らずに彼は言った。
「見れば分かると思うけど、今一泳ぎしたところでさ。ちょっと着替えたいんだけど……」
「そうなんだ」
 彼の反応はそれだけだった。じゃあ、一旦家に帰る? だとか、着替えておいでよ。とかそういうセリフの一つも出てこないし、手を離してもくれない。こちらの都合はお構いなしだ。
 流石に腹が立ったが、アルはいつだってこういうやつだ。こいつを逆さまにして振ったって気の利いたセリフや態度は一つも出てきやしない。どうしようもないし、いまさらだった。
 村を抜けて、だだっ広い砂漠を連れられるがままに歩いた。
 十分も歩くと、北の砂丘に辿り着いた。気付けばガラビアもだいぶ乾いていて、水滴もだいぶ収まっていた。
 確かにそこには、数本の花が咲いていた。小さい花だった。白色の花と、紅色の花がある。幾つも花が寄り添っていて、まるで家族みたいだった。多分、この花たちはとても弱いから、こんなに寄り添っているんだ。嵐の晩に家族がそうするように、あるいは、世間に対して無力な恋人たちがそうするように。
 それを、あろうことかアルは、片手でむんずと掴んで、思い切り引き抜いた。茎の引き千切れる音が、花の悲鳴のように聞こえた。
「ブバルディアってさ」私は抜かれた花を意識しないように、極力明るい声でそう言った。
「うん」
「花言葉とかあるんでしょ?」
「うん」彼はやはり頷くだけだった。そこでこちらの意図を汲み取って、教えてくれればいいのに、と思う。
「教えてよ」
「夢」
「夢……?」そのワードに、少しだけ私の肩が跳ねた。
彼は別のブバルディアを引っこ抜いた。ああ、せっかく咲いた花がもったいない……。と思いながら、その様子を眺める。どうせ制止したって、彼は聞きやしないんだから。ごめんね、ブバルディア。
「そう、夢。空想とか、情熱って意味もあるけど」言いながら、次から次へと引っこ抜いていく。その姿はいつになく真剣だった。
「相変わらず、詳しいんだね……」ちょっと可愛そうだなぁ、なんて思うけど、彼が引っこ抜いた花で何をするのか、少しだけ気になる。
 そしてその答えは、僅か数秒後に明らかとなった。
「これ、あげるよ」抜いた花を、どこから取り出したのか、輪ゴムで束ねると、彼は私にそれを渡した。
「なに、これ」
「花束」なんて風情のない花束だ、と心の中で呟く。でも、もしも受け取らなかったら彼はこれをそのまま捨ててしまいそうだし、七本のブバルディアを私はそっと抱えた。
「帰ろう」アルは私の空いているほうの手を取り、ここに来るときにそうだったように、こちらを見向きもせずにすたすたと歩きだしてしまった。本当に、人のことなんて露ほども考えない、奔放なやつだ。
 私はため息を吐いてから、彼を引っ張られるように砂丘を駆け下りた。
 丘に残ったブバルディアの花は、たったの一本だけだった。

      ◇    ◇    ◇

 幼少の頃、夢を見てしまった私は、ひどい罪悪感に苛まれていた。私は悪い子だ。私は皆とは違う。私は許されざることをした。私は夢を見た代償に死ななければならない。そんな言葉が、呪詛のように頭に浸透して已まなかった。
 けれども、夢を見たことは誰にも言えずにいた。お父さんに夢を見たことを告白してみるシミュレーションをしたこともある。
「お父さん、大事な話があるの」
「うん? どうしたんだい、そんな改まって」
「じつは私、夢を見てしまったの」
「なんということだろう……。お前は悪い子だ。お前なんて、もう知るものか。死んでしまえ」
「うわーん」
 こうなるに決まっている、と本気で思っていた。どれだけお父さんを信用していなかったのだろう。あるいは、ただ嫌われるのが嫌だっただけか。
 ともかく、私は一人で悶々と抱え込みながら、数年を過ごしたことは確かだ。あの日以降、私は見違えるくらいに大人しくなり(昔からそんなに騒ぐ子どもではなかったけれど、少し病的なくらいに静かになった)、友達付き合いも激減するようになった。
 見えない影に脅えた。聞こえない物音に震えた。物陰から誰かが現れるたび、恐怖の感情が呼び起こされた。
 そもそも夢を見たらどのような死に方をしてしまうのかは知らなかったけど、あの時、あんまりにもあっさり目が覚めたものだったから、きっと後日に死神みたいなものがやって来るのだろうと思い込んでいたのだ。
 まるで精神異常者みたいになった私を、両親はひどく心配した。でも、何を問われても私は決して口を割ろうとはしなかった。言葉にしてしまえば、誰かに話してしまえば、ますます夢を見てしまったことが具体化され、枷となる。私一人の記憶にあるだけなら、それが嘘か真かあやふやなままでいられる。
 友達は、最初は心配してくれていたけど、数週間も経つと、残酷なくらいスッパリと関係を絶った。そもそも私から離れたのだから、責めることなど出来ないのだけど、本当に上辺だけの付き合いだったのかな、なんて少し哀しくなったりもした。
 そうして私は泥沼に陥り始めていた。
 やがて、こんな私は生きている価値が皆無じゃないか。そりゃそうだ、私はもう死んでいるべき人間なのだから。きっと何かの手違いで生き永らえただけなのだ。だったら、辻褄を合わせないといけない。矛盾した私は、この世から消えるべきだろう。とか、そういうふうに考えるようになった。自己矛盾に苦しみ抜いた果てがそれだった。
 いよいよ精神的に疲弊し切った私は、死神に誘われるように、村の外れにあるオアシスに足を向かわせた。その時私とすれ違った者は、後にこう言った。「水を求めて彷徨う餓死寸前の旅人みたいだった」と。
 オアシスに向かう時、私の頭にあったのは夢に見た女性の姿だった。彼女が、私を殺してくれるに違いないと思っていた。
 老人ばりにゆっくりした足取りでオアシスへと歩みを進める。何もかもがバカバカしくなるくらいの快晴で、空は雲一つない群青色に染まっていた。
 やがてオアシスへと辿り着いた私は、水を求めて彷徨う餓死寸前の旅人が命火尽きる寸前にオアシスを発見した時のようにゆっくりと入水した。
 水の冷たさが、心地よかった。身を委ねてしまいたくなったので、身体の力を抜いた。服が水を吸って重くなり、徐々に水底へと引っ張られていく。
 足はもう地に着かなくなっていた。崖から足を踏み外したかのように、身体全体がぐいっと落下した。底の見えない小宇宙が、私を呑み込もうと口を開けた。牙を剥き出しにした怪物みたいだ。呑み込まれれば、全てが終わる。
 少しだけ名残惜しくなって、私は上を向いた。水面に光が揺蕩っている。もう出会うことのないだろう光。さよなら、さよなら。
 でも、私は水底の怪物に喰われなかった。光から手が伸びて、ガラビアの襟を掴んだのだ。
 私はもう、びっくりして水を思い切り呑み込んでしまった。それで、咽てしまって苦しくなると、本能なのだろう。私は必死に酸素を求め始めた。酸素はどこにある? そんなの決まっている。水面の向こう側だ。
 気がつけば、私は水辺で大の字になって横たわっていた。貪るように呼吸する。日差しが眩しい。目が眩んでしまいそうだ。
「夢?」
 不意に声が聞こえた。首を少し動かすと、影があった。同い年くらいの少年だ。星空のように深い藍色の髪が綺麗だった。
「え?」
 私は驚いて、素っ頓狂な声を上げた。
「夢なんでしょ? 潜った理由」
 彼はもう一度私にそう問うた。
「何で、知ってるの? 私が夢を見ちゃったこと、誰にも言ってないのに」
 それは純粋な疑問から来る質問だった。後から考えれば、もっとよく頭を働かせてから言えばよかった。でも多分、酸素が足りていなかったのだろう。
「夢を見たの?」
 彼の喋りのペースが少し早くなった。そして、顔をぐっと近づけられる。彼の髪から滴る透明な水滴が、私の鼻先に垂れた。くすぐったかった。
「うん……。だから、何で知ってるの?」
 この辺りで、私は会話が噛みあってないことに気が付いた。多分それは、相手も同じだったのだろう。
「知らないよ。夢が見たいから、潜ったのかなと思ったんだ。僕は」
「夢なんて、むしろ見たくもないよ。それで、夢を見ることと、オアシスに潜ることにどんな因果関係があるっていうの」
 今更だが、お互い喋りはもっとたどたどしかったと思う。
「へぇ、知らないんだ。オアシスの言い伝え」
 彼は何故か得意げになって言った。
「言い伝え?」
 何だか気になって、私は上半身を起こした。彼は寸でのところで顔を退けた。
「そう。オアシスの水底には、夢を見ることの出来る術が眠っているってね」
「でも、夢を見られても良いことなんてこれっぽっちもないわ」
 結果的に、自殺未遂にまで発展してしまったのだ。百害あって一利なしである。
「本当に見たんだ? なら、どんな夢を見たのか教えてよ」
 彼はやや挑発するような口調で言った。多分そうやって私の口を割らす作戦なのだろう。そんな魂胆はすぐに見破れたが、もうどうにでもなれ、と思ったので私は話すことにした。
「水中で、綺麗な女性が謡っている夢よ。黒い髪がおどろおどろしくて、それから思わず眠ってしまいそうな歌を謡うの」
「ふうん。良いじゃん。僕も夢が見たいんだ」
「どうして? 夢を見たら死んでしまうのに」
「好奇心。夢の中なら何だって起こるんだ。きっと退屈しないよ。それに、キミは死んでない」
 その後、私たちは互いに自己紹介をした。私はサナで、彼はアル。
 この時ほど饒舌に喋るアルを見ることはもうなかった。彼は成長するにつれ、精神が変な方向へと伸びていき、口数は減り、意味不明な言動ばかりが目立つようになってしまったからだ。
 だが、彼との出会いが私を変えた。夢に対して肯定的な人間と出会ったことで、とりあえずは泥沼から脱出することが叶ったのである。

      ◇    ◇    ◇

 北の砂丘から帰ってきた私たちを、同年代の少年たちが発見した。
 私とアルは何だかんだでいつも一緒にいるので、あの二人は付き合っているとか、将来結婚するらしいとか、そんな噂が絶えない。
 普通なら祝福されて然るべきなのだが(もちろん、私たちは付き合ってなどいないが)、その片割れがアルとなれば話は別だ。彼が変わり者なのは村の誰もが知るところであり、そんなアルと暫定恋人候補である私も変人の類に入るらしい。
 だから私たちはいつも、人のことを蔑み笑うことにしか能のない彼らの絶好の標的となってしまっている。
 直接言うか、もしくは私たちの耳に届かないところで言う陰口ならまだしも、聞こえるようにボソボソと言ってくるのだから性質が悪い。
「アル……」
私は小声で言った。もう村の中だというのに、彼はまだ私の手を取ったままだ。これだから、余計に目立つのだ。
「うん?」
彼は普段と変わらない調子で言う。彼は常日頃から他人に無頓着だから、悪口に対してもそうなのだろう。
「皆、見てるよ」とそう囁いた。
「ふうん」
やっぱり彼は意に介さずといった感じだった。私はイライラしながら言った。
「手、離してよ」
「どうして?」
 ああ言えばこう言う典型みたいなやつだ。何でも聞かなければ気が済まないのか。
「だから!」柄にもなく、大声を出してしまう。それを遠巻きに見ていた陰口集団が「夫婦喧嘩か?」などとのたまうのが耳に入る。最悪だ。悪循環だ。
「サナ、怒ってる?」アルが突然振り返る。その動作に一切前触れがないものだから、私と彼の距離が一気にゼロに近くなる。何とか、寸でのところで踏みとどまった。
「ちょっと、急に立ち止まらないで!」
「サナ、やっぱり怒ってる」
 会話が成立しない。噛み合わない。いつもそうだ。積年の苛立ちが、ついに爆発した。
「何でいつも、そんな自分勝手なの? もっと、周りのことも考えてよ! 私の気持ちだって、考えてよ!」
 叫んだ瞬間、何かが吹っ切れたような気がした。同時に、何かが崩れたような気もした。
 少し強く言い過ぎたかもしれない。よくよく考えたら、アルはそんなに悪くはない。悪いのは陰口集団だ。だけど、アルにも一因がある。だから私は悪くはない……。
「ごめん」
 アルの声が、心なしいつもより弱弱しく思えた。そして、ゆっくりと、名残惜しそうに、アルの指先が私の腕から離れた。
「あっ」私は慌てて言い繕うとした。ちょっと言い過ぎたわ。とか、別に、本気で怒ってないんだから、そんなに気にしないで。とかそんな感じで。
 だが、私が何か言う前に、彼は私から顔を背けて、彼方へと走り去ってしまった。

      ◇    ◇    ◇

 その日の、真夜中の二十六時過ぎのことだった。
 突然、玄関の扉が乱暴にノックされる音がして、私は目が覚めた。
「何事だぁ?」と言いながら、お父さんが玄関のほうへ向かうのが物音と声で分かった。お母さんは眠たそうに「こんな時間に、何かしら」と呟いている。
 ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。私は耳を澄ませる。
「いったいどうしたんですか?」
 お父さんが、応対する。
「夜分遅くにすみません。どうも、アルくんが、居ないみたいなんです」
 老人の声だった。多分、向かいのシラノさんだろう。切迫しているのが、声色から見て取れた。
 私は状況を素早く理解し、跳ね起きた。そのまま玄関へと向かう。
 私は玄関で話している二人の横を猛スピードで通り抜けた。裸足のまま、夜の帳を駆けて行く。
「サナ、待ちなさい! 止まれ! どこへ行くんだ? 捜索は大人に任せて、大人しくしときなさい!」
 後ろから、お父さんの怒鳴り声が聞こえるが、その声を振り切るように速度を上げた。
 私が怒鳴ったせいで、アルがどこかへ行ってしまったのだとしたら。私が今こうして生きているのはアルのお陰なのに。陰口が何だというのだ。そんなものが、アルより大切だったのか、私は!
 アルは何処へ行ってしまったのだろう。恐らく、村の中は大人たちが既に探索済だろうし、それだったらこんな騒ぎにはならないはずだ。心当たりがあるのは、オアシスか、北の砂丘だ。
 私は北の砂丘へ行くことにした。何となく、直感がそう告げていた。昼間、彼が私をそこに連れて行ったのは、何か訳があるはずだ。

 おおよそ五分かけて北の砂丘に到着した私を出迎えたのは、横たわったアルの静かな寝息だった。砂丘の上で眠るアルは、月明かりに照らされて、妙に綺麗に見えた。まるで精巧な人形か何かのようで、現世と乖離した存在のように思えてならない。彼の傍らには、紅いブバルディアの花が一輪、静かに揺れていた。
 近寄ろうとすると不意に一陣の風が吹いて、辺りの砂を勢いよく巻き上げた。その砂が、三つの影を生み出した。アルを囲むように、三人の輪郭のない影はふらふらと揺れ、そして瞬いている。
 影たちは、眠るアルを覗きこんだり、お互いに目配せをしたりしながら、徐々にその輪を狭めていく。
 何だか嫌な予感がして駆けだした。アルを起こさなければ、彼が居なくなってしまう気がした。
「どいて!」
 影の一人を押しのけて、私はアルの傍で屈み込んだ。強く揺さぶっても、彼は起きなかった。優しい表情のまま、眠りこけていた。
「ソイツハ、モウメザメナイ」私が突き飛ばした影が、抑圧のない声で囁いた。
「ユメヲミタニンゲンハ、ソノママシンデシマウノダカラ」
 そう言った別の影は、やれやれと言うように、小さくかぶりを振った。
「私は死ななかったわ。黙ってて!」私は影をきつく睨みつけた。それから、アルに視線を戻す。
「ずっと傍にいるから、もう離れたりしないから……。お願い、目を覚ましてよ……」
 涙が頬を伝って顎先へと流れ、それから彼の鼻先へと滴り落ちた。それで彼が目覚めるのではないかと一瞬、期待したが、何の変化も起きない。
「ナニヲシテモ、ムダダ。オマエトアイツトハ、ユメトマコトトイウ、チガウセカイニイルノダカラ」影は、水に溶けた紙のように、すっと透けて消えてしまった。
 幻想、はたまたこれこそが夢だったのか。
 あとに残ったのは、もう目覚めないアルと、すすり泣く私だけだった。だけど、いつまでも泣いている場合じゃない。私は裾で目じりを拭うと、影の言葉を反覆する。
「何をしても、無駄だ。お前とあいつとは、夢と真という、違う世界に居るのだから」
 つまり、私が夢の世界へ赴けばいいのではないだろうか。だが、どうすればいい。どうすれば、私は夢を見られる?
 唯一思い浮かんだのは、オアシスの情景だった。今こそ、確かめるべきだ。オアシスの言い伝えを。
 それはいいのだが、何故だか、二人一緒に入水しなくてはいけないような気がした。ただ何となく、一人でオアシスに行ったって、どうしようもないと思えるのだ。
 それに、私はもうアルから離れないと決めたんだ。夢を見る時だって一緒がいい。目覚める時だって一緒がいい。
 とは言ったものの、私一人では彼を担いでオアシスまで行くことは出来ない。アルは普通の男の子よりかは幾分か軽いが、それでも男女の体格差や体重差は大きい。まともに考えれば不可能だ。
 私は折衷案を採用することにした。
 一旦彼をここに置いていき、村へ戻る。そしてソリか何かを運んで戻ってくる。ソリは引っ張るための縄もあるし、荷台に車輪が付いていて、重いものを運ぶのに便利だ。
 決して短くはない時間、彼を一人で残さなければならないが、影はもういないし、それ以外にどうしようもない。
 急がなくては、大人たちの捜索の手がこの近辺まで及ぶ可能性がある。さらに、捜索リストに私の名前が追加されている可能性も大いにあるため、私は時間に追われるようにして駆け出した。
 走れば五分もかからない距離だ。だが、その五分が無限に等しく長かった。裸足のせいか、いくら進んでも進んでも、砂を踏み抜くだけで進んだ気にならない。
 遠くに浮かぶ満月に向かって、拳を振りかざしながら、懸命に先へと進んだ。
 遥か先に、シルエットが浮かんだ。初め、建物の影かと思ったが、それがゆっさゆさと左右に動いたので、違うと判断する。どうやら、大人たちがこちらへとやって来たみたいだ。よく考えれば、私の足跡がくっきり残っているのだから、当たり前だ。
 万事休す。
 私はあっという間に大人たちに捕まった。

      ◇    ◇    ◇

「離して」
 強い口調で言う。
「駄目だ」
 お父さんの声は、いつにも増して低く、風の唸り声のようだった。変わり者のお父さんは、今はお出かけ中のようだ。
「サナ。どうして、お父さんの制止を振り切って、アルくんを探しに行ったんだ?」
 怖い顔。私は、生まれて初めてお父さんの顔を見たくないと思った。俯いておくことにする。
「友達だから」
 私は不貞腐れたようにそう呟いた。その態度が、お父さんの怒りに火を点けたようだ。
「だから、大人たちに任せなさいと言っただろう!」
 村中に響いたのではないか、というくらい大きな声だ。私は思わず竦んだ。
「あなた……」
 お母さんが宥めようとするのを振り払って、お父さんは私の両肩を掴んだ。粗暴に扱うようでとても痛かった。
「もしも、もしもお前に何かあったら……何かあったら……」
 そこで言葉が途切れたので何事かと思い、私はちらりと顔を上げた。すると、驚くことに、お父さんは目じりにいっぱい涙を溜めて、私をじっと見ていた。
 その時、私は悟った。私は、自分のことしか考えていなかったんだ、と。お父さんや、お母さんの気持ちを、ちっとも考えていなかったんだ、と。私がアルのことを心配したように、やっぱりお父さんとお母さんは私のことを心配してくれていたんだ。
 私は覚悟を新たにした。この人たちに、全てを黙って置くべきではないんだ。だって、こんなにも愛してくれているのに、私はどれだけその思いを裏切ってきたのか分からない。
「昔の話、してもいい?」
 静かにそう言う。それから面を上げて、凛と背筋を正して、真っ直ぐを見据えた。お父さんは、黙って頷いた。
「私ね、小さい頃、お父さんから夢の話を聞いた日の晩ね。夢を見たんだ」
 お父さんは、黙ったままだ。
「それで、夢を見てしまったことが怖くて恐ろしくて、生きているのが間違いなんだって思うようになって、オアシスに入水自殺しようとしたの。それで、溺れかけた私を助けてくれたのが、アルなの」
 私は、大きく息を吸った。
「私は彼に救ってもらったわ。そして今、彼が北の砂丘で夢を見ているの。だから、今度は、私がアルを助けたい」
 お父さんは、初めて強硬な態度を崩して言った。
「大人が見つけたんじゃ、駄目なのか?」と。
 だが、それでは何の解決にもならないことを、私は知っている。お父さんも知っている。村の皆も知っている。夢を見た者は死ぬ。そういう慣わしだからだ。
「私が行かなきゃ、駄目なの。私が、夢を彷徨う彼をつれて帰ってこなくちゃいけないのよ」
「だが、何もお前が、危ない目に合うことはないじゃないか……」
初めてお父さんは狼狽えたようだった。自分が正しいと信じている間の彼は強い人間だが、一旦それを挫いてしまうと、驚くほどに頼りなくなってしまう。多分、人間なんて誰もそんなものだ。強さと弱さが裏表になって潜んでいるものなのだ。
「いいじゃない、貴方だって変わり者だったでしょう。そんな貴方を私はよく助けたわ。良い女の子はね、駄目な男の子を支えたくなるのよ」
そんなお父さんを支えたのは、お母さんだった。
「私が夢を見たこと、怒ってない?」
 かつてシミュレーションしてみた結果が、頭を過った。
「怒らないさ。怒る理由なんて、これっぽっちもないよ。でも、ごめんなサナ。気付いてやれなくて」
 お父さんは私を力強く抱きしめた。不器用で、痛くて、でもどこまでも優しいお父さんの抱擁だった。それから、お母さんが言った。
「行きなさい。ただし、必ず生きて戻ること。サナちゃんのこと、信じているから」
「ありがとう」
 お父さんも言った。
「しばらくの間だが、捜索の手を北の方へは近寄らせないようにしよう。良いかい、危険な真似はしちゃ駄目だからな」
「分かった」
 お父さんとお母さん、二人の親の手が、私の背中を力強く押した。
 私は倉庫からソリを取り出すと、それを引っ張って走った。風に伝わって、お父さんが村びとたちに指示する声が聞こえる。
「アルくんは、南の方へ行ったらしい! そっちを全力で捜索してくれ!」
 ありがとう、と心の中で呟いた。私は、幸せ者だ。

      ◇    ◇    ◇

 北の砂丘に辿り着く頃には、身体がすっかり凍えてしまっていた。走っていたので幾分かはマシだったが、眠りに落ちているアルはどうだろうか。そうとう体温が低下しているはずだ。
 やはりと言うべきか、彼の身体に触れた瞬間、その冷たさに息を呑んだ。死んでいるのではないか、と錯覚してしまうほどに冷えている。急がなければならない。
 私は慎重に彼の身体を起こして、肩に担いだ。体格差のせいでだいぶ無理をしなければならなかった。
 彼をソリに乗せると、私は縄を思い切り引っ張った。相当つらいが、それでも滑らかな砂のお陰で、無理というレベルではない。
 砂丘から降りる時は楽だった。そのまま勢いのままに行けたらいいのに、摩擦や風のせいで、ソリはすぐに止まってしまう。どうやら地道に運ぶ他ないようだ。仕方がないとは分かっていても、ため息が漏れる。
 なんて思っていると、風が強く吹いて、再び影が現れた。先ほどと同じ三体である。
「何しに来たの」と言うと、彼らは先ほどと同じように抑揚のない声で嘯いた。
「ソイツハ、ホウッテオケ。ユメヲミレバシヌ。ソレガコノセカイノオキテダ」
「そんなの、だれが決めたって言うの。それに私、掟だとか慣わしだとか、そういうの嫌いなの」
 彼らに構わず、ソリを引こうとする。だが、当然彼らはそれを静観したりはしなかった。
「ワレラハ、ユメトマコトノキョウカイヲマモラナケレバナラナイ」
 するといきなり、激しい頭痛が私を襲った。脳が縮小してしまいそうなほどに強い艱苦だ。思わず膝をついた。
「オトナシクタチサレ。サスレバ、コノイタミカラカイホウサレルダロウ」
 あまりの痛みに涙が滲み出てきた。どうして私がこんな目に遭わなければならないのか。無性に悲しくて、つらかった。遠くで誰かが叫んでいると思ったら、それは自分の声だった。次第に何も考えられなくなる。思考しようとしても、全て痛みで弾かれるのだ。
 ソリを引くのを諦めて、頭を抱えて砂地にうずくまると、痛みは潮が引くように薄らいでいった。どうやら、アルを夢から覚ませようとしなければ、痛みから解放されるらしい。こうして追い詰めていき、次第に諦めに向かわせようという作戦なのだろう。
 そもそも彼らは一体何なのだろう。明らかに、この世のものならざる存在だ。どこか別次元の存在に違いない。龍脈とは少し性質が異なるが、彼らは何かを媒体にしてこちらの世界に具現化しているのではないだろうか。
 もしもそうであるなら、接続回路となっているのは恐らくブバルディアの花だ。現在夢を見ているアルが接続路となっている可能性もあるが、そうであったならお手上げだし、今は考慮するべきではない。
 花言葉が夢であること、そしてブバルディアの近くで実際にアルが夢を見たこと。これらから考えても、ブバルディアには夢の世界と真の世界を繋ぐ、ゲートの役割があると考えることができる。
 何をすればいいか。とりあえず思いつくのはブバルディアを引っこ抜くことだ。私は砂丘の上に咲く、一輪の花を見据えた。花に罪はないが、やるしかない。
 這うように、砂丘を登り始めた。すると、和らいでいた頭痛が、再び頭が割れてしまいそうな激痛となって襲い掛かる。目蓋の裏に写ったのは、憎悪の情だった。影たちが帯びる激しい憎悪が、私に苦痛を与えているのだ。
 月が姿を眩ませて、世界は闇に閉ざされたように暗くなった。その中で、白い影がはためいている。アキラメロ。そう言っているみたいだ。それでも私は頭を抱えたままうずくまったりしなかった。この痛みの先で、アルがはにかんだように笑いながら待ってくれている。いつかブバルディアの花束をくれたように、また私に贈り物をくれるのだろう。彼の笑顔に手を伸ばすように、闇雲に手探りを続けた。砂の感触が指を撫で、掬い取ったものは全て指の隙間から零れ落ちていくけれど、私は何かを求めて砂を掻き続けた。
 次第に思考が薄れていく。何も考えらなくなるばかりか、考えていたことまでも忘却してしまうのだ。
 そういえば、私はいったい何を探しているんだっけ。誰に問い掛けるでもなく、疑問が水滴のように零れ落ちた。
「夢」
 暗がりの中、アルが仏頂面でそう言った。
「空想とか、情熱って意味もあるけど」
 そうだ、私がさがしているのはブバルディアの花だ。それを、引っこ抜かなければならないんだ。
 不意に人差し指の先が花弁に触れて、はっとした。遠くで誰かが叫んだ。意に介さず茎を思い切り掴んだ。どこかで誰かが泣き喚く。気にせず花を握る手に力を込める。近くで誰かが断末魔のような雄叫びを上げた。その声を掻き消すように、花を握ったまま手を思い切り引き上げた。
 その瞬間、靄が風で吹き飛ぶように、闇が消えた。月が笑った。痛みが引いた。静けさが戻った。私は傾斜に這いつくばったまま、右手に紅い花を握っていた。辺りを見渡しても、影は文字通り、影も残さず消えていた。
 頭痛は収まったものの、あの痛みの感覚はまだ轍のように残っていた。顔を顰めながらソリの元へと戻る。ブバルディアは懐に仕舞っておいた。何となく、捨てるのは躊躇われたのだ。そこでようやく私は異変に気付いた。ソリの後ろに隠れるように、まだ影が一人残っている。先ほどの三人より小柄な、子どもサイズの影だ。
 ブバルディアの花は抜いたのに、いったいどうして……。いや、やはり最初の読みが正しかったのだ。アルも接続回路に成り得るということだ。小さい影は、アルを媒介として具現化した影なのだ。しかしアルは花のように引っこ抜くわけにいかないし、これではお手上げじゃないか……。
そんなふうに考えあぐねていると、小さい影はいそいそと移動し始めた。いったい何事かと思い、その様子をただ眺めていると、彼はソリを引く綱を掴んだ。訳が分からなくて、影をじっと見つめていると、影はソリを引っ張るジェスチャーをし始めた。俄かには信じ難いことだが、どうやら運搬を手伝ってくれるらしい。
「もしかして、手伝ってくれるの?」そう質すと、影はオーバーに頷いた。先ほど影に襲われたばかりで、完全に信頼できるわけではないが、この影は別段私に危害を加えていないし、邪険に扱うわけにもいかない。
「ありがとう」お礼を言うと、影は照れたように手で頭を掻いた。最初はまた悪いやつが現れたと思ったけど、この子は違うようだ。それに、こうしてみると何だか愛嬌があって可愛いじゃないか。 私はこの影を、子影と呼ぶことに決めた。

 二人で運ぶソリは、とても軽くて楽だった。影は砂で出来ているはずなのに、とても力持ちで、ソリは歩いているのと変わらないスピードでスイスイ進む。もしかするとそれ以上かも知れない。
 私は隣で一緒に縄を引っ張ってくれている子影をちらっと見た。彼は私の視線に気が付くと、片方の手を軽く振った。素直で、簡単に意思疎通も図れる。日頃意志疎通の難しいアルの相手ばかりしている私は嬉しくなった。嫌な出来事もたくさんあったけど、ささやかな出会いが嬉しくて、気分も高揚する。
 気が付けば、オアシスはもう目前に迫っていた。
 子影が、やはり剛腕を発揮してアルをソリから降ろした。水面までの距離は、五メートルもない。
 私はアルの傍らに寄って、彼が目を覚ましてないか、あるいは心臓は止まっていないか確認した。どちらでもなかった。しかし、この寒さだ。眠り続けていたら、拙いかも知れない。
 子影は、いつの間にか五十メートルほど向こうの方にいた。どうやら、お別れが来たようだ。私は手を大きく振った。子影も振った。何だか、奇妙な絆が生まれたみたいだった。
「また、出会えたらいいな!」
 そう叫ぶと、子影が笑ったような気がした。そして、瞬きをした後のそこには、何も在りはしなかった。

「アル、大丈夫?」
 一応、声を掛けてみる。当然、反応はない。寝ていても、起きていても、彼は私を困らせる。どうして、そんな彼が、こんなにも愛しいのだろう。よく分からない。
 お母さんも、私と同じだったのかな。変人なお父さんのことを好きになった理由は何だろう。
 なんにせよ、彼を連れてオアシスへと入水しなければならない。だが、ここに来て私は不安になった。
 真夜中のオアシスは、身体の芯まで冷え切ってしまいそうなほど冷たい。ただでさえ凍えているアルは、凍死してしまうのではないか。そもそも、湖の底へ行けば夢を見られる保証もない。夢を見れたところで、彼と意志疎通出来る保証もない。彼が夢から覚めたとして、湖の底から浮上出来る保証もない。
 懸念事項ばかりじゃないか! 私は何という浅ましい思い付きでここまで来てしまったのだろう。馬鹿か私は。
 ……だが、やるしかないじゃないか。それ以外に、方法はないのだから。
 服を脱ぐか迷ったが、着たままにすることにした。ただでさえ冷えるのに、裸で水の中に入ったら、それこそ死んでしまうだろう。
 それに、潜水するのだから、服の重みは問題にならない。問題になるとするなら、生還する時だが、そんな後のことは、その時に考えればいい、という名の思考放棄。
「さて、と。それじゃあ、行こう? アル」
 眠り続けるアルに語り掛ける。返事はない。私は彼を立たせた。歯を食いしばって、渾身の力で、とにかく私という存在が持つありったけの力の全てを放出させて彼を支えた。今、周りに人がいなくてよかったと思う。アルが寝ていてよかったと思う。きっと私、今とんでもなく可愛くない顔をしているはずだ。
 一歩歩くのも一苦労だった。それに加え、裸足が水に触れた瞬間、痺れるような感覚を覚えた。この冷たさだけでアルが目覚めてしまいそうなくらい、キンキンに冷え切っている。
 もちろんアルは目を覚まさないし、冷たい思いをしているのは私だけだ。何だか腹が立ってきた。どうして、こいつが阿呆みたいに眠って、夢を見ているせいで私がこんなに苦労せにゃならんのか。
 やけくそになって、水面を突っ走った。すぐに足が付かなくなって、バランスを崩し、私とアルは水面へとダイブした。飛沫が跳ね上がる。
 全身が浸かると、冷たいというより、清涼感があるという感じに変わる。私はアルの姿を探した。思ったより近くにいる。彼は私より重いから、沈むのも早い。私は彼の腕にしがみ付くことにした。いつも彼が私の手を握るから、そのお返しだ。
 二人は、ゆったりと水底へと落ちていく。逆に言えば、世界が私たちを置いて、ゆっくり浮上しているのだけれども。
 水面に浮かぶ、月の影。手を伸ばしても、届かないくらい遠くに行ってしまった。でも、それは最初からだ。どこからそんなにたくさん出ているんだ、と問いたくなるくらい、数多の泡が煙みたいに水中を登っていく。馬鹿と煙は高いところが好きらしい。泡は馬鹿なのだろうか。
 意識がだんだん覚束なくなってくる。何もかもがどうでもよくなってくる。この感覚は、寝る前の感覚によく似ていることに気が付いた。
 ああ、でもそんなことさえもうどうでもよくなっていく……。朦朧とした意識の中で最後に見たものは、水底の淀みに浮かぶ、砂よりも白い肌の美女が謡う姿だった。
 彼女は謡う。私たちのための子守唄を。微睡みが私を死地に誘って已まない。それなのに、どうして私はそれを受け入れてしまいたいと願うのだろう。

      ◇    ◇    ◇

死ぬ、という現実が私の前に立ちはだかった。私もアルも、このまま溺れ死んでしまうのだろう。
 それなのに、どうして思い出すのは貴方との思い出なのだろう。夢を見たという秘密を貴方にだけ打ち明けたこと。それを聞いた貴方が頷いてくれたことが、どれだけ私を救ったか。貴方はきっと何も知らないだろうな。奔放な貴方は考えもしないでしょう。
 貴方のくれたヘタクソな花束が、いつまでも枯れないようにと祈っていたい。貴方はいつも真っ直ぐで、周りのことなんて一切気にせず、ひたむきに生きているのに、私はなんて臆病だったのだろうか。
 ねぇ、貴方に伝えないといけないことがあるの。だからお願い。一度くらい、心満ち満ちるような幸せな夢を見させてください――

 そして光が溢れた。目を見開いた瞬間、私は当惑した。
 見るもの全てが、言葉で表現し得ないほど、美しかったからだ。あえて言葉で表現するならば、ここは星の欠けらだった。
 色とりどりの花が、地表を鮮やかに彩っていて、それは刻一刻とグラデーションを変化させていっている。その中にブバルディアの花を見つけて、私ははっとした。その瞬間、頭の中に液体が注ぎ込まれるように、知識が流れ込んでくるのを感じた。そして、ブバルディアの隠された花言葉も。
 空は青空と星空が両立していて、時折虹のカーテンが現れては幕を開いた。
 私たちの世界では無音がベースだったように、この世界では心地いい音がベースなようで、それはどんな状況下でも必ず奏でられているし、それが止むなんてことは想像だに出来ない。
 それだけではない。常時、柔らかい毛布で身体を包み込んでいるような感触がしていて、それは恐らく痛みだとかそういうものを一切シャットアウトしてしまうのだろう。
 会いたい時に会いたい人と会えるし、行きたい時に行きたい場所へ行ける。時間は一方通行ではないし、この場所に存在しないものなど何一つない。知りたいことは何でも知れる。子どもが空想した理想郷みたいな場所。美しさがそのまま世界になったような場所。バカバカしいくらいにやさしい場所。
 それが、夢の世界だった。
「アルと話がしたいの」私は目を閉じて、胸に手を当てて、祈った。
 目を開くと、目の前にアルがいた。変わらないままの姿で、いつものように無愛想な顔で、小さな宇宙を頭に乗っけながら、そこに立っていた。
「サナ。来たんだ」
「アル!」
私はもう、感極まって、思い切りアルに抱き付いた。もちろんこんなこと初めてなので、彼はたじろいだし、戸惑っていたようだけど、どうでもよかった。
「私、心配したんだから……」涙がそっと頬を流れ落ちた。
「ごめん」
 アルはそう言って、私をそっと抱いた。弱弱しいけど、包容力があって、とても優しい。それが彼の抱擁なのだと私は知った。
「ここは、やっぱり夢の世界なのね?」私は腕に抱かれながら、彼を仰ぎ見た。アルは頷いた。
「ここは夢の中だよ。僕らが夢中になって探し求めていた、もう一つの世界なんだ」
夢中になって追い求めていたのはアルであって私は違う、と反駁しようとしたが、そんなに重要なことではないので止しておいた。
「アルは、この世界がいいの? 現実で死んでしまっても良いってそう思うの?」
「サナはどうなの?」質問に質問で返すな、と言いたいところだが、私は既に答えが決まっていたから、それを言うことにした。
「私は……アルと一緒なら、それでいいって思う」
 それが夢の世界でも、現実の世界でも、一緒のことだ。
「つまり、場所はあまり重要ではないってこと?」
「うん。まぁ、そういうことなのかな」
「やっぱりサナは、凄いよ」アルは微笑んだ。その言葉や態度の意味が分からなかった。
「どうして?」
「この場所に居て、ここから離れてもいいやなんて思う人は、ほとんど居ないから」
「なんで?」
 そう聞いてから気づいたが、私と彼の関係は、今までとぐるりと入れ替わってしまったようだ。私が質問をして、彼が答える、というふうに。
「ここが、あまりにも素晴らしすぎるから。美しすぎるから。目覚めるのが怖いほどに」
 彼は、言葉の一つ一つを噛み締めるようにそう言う。
「来いよ。獏」
 アルはどこか虚空を見据えてそう呟いた。すると、音もなく、前触れもなく、突然そいつは現れた。
「御呼びかな?」
 それは、黒い煙突のような帽子と同じく黒く柄の一切ない服を着こなし、ステッキを手を握った、鼻の長い子どもみたいな出で立ちをしていた。その帽子と服は遥か昔に作られたシルクハットとタキシードというらしいことを、夢の世界が知識として教えてくれた。どうしてそんな古い時代のものを着ているのかは分からないが、とにかく言えることは、こいつが妙ちくりんなやつだってことだ。
「ああ。さっき僕にしたように、サナにも夢の説明をしてやってくれ」
「仕方あるまい」
 彼はシルクハットを脱帽して、恭しくお辞儀をすると、流暢な言葉で話し始めた。
「どこから説明すればいいのだろうね。そうだな、まず、どうして夢を見ると死んでしまうのか。というのは、アル坊ちゃまが仰った通りだ」
 自分が居なかった時の話まで把握している。流石に夢にまつわる生物なだけあって、知らないことまで知り得るというこの世界の機能をフルに活用しているのだろう。
「人間にとって、夢の世界はあまりに尊すぎた。その美しさを一度目にすれば、もう目覚めることも叶わなくなってしまう。それ故、人間たちは夢を見ると死ぬのだ。厳密には、食物を摂取出来ないことによる餓死が原因だが」
「でも、じゃあ、何故、人間は夢を見なくなったの? 貴方のお陰なの?」
 小さい頃、お父さんが話してくれたことを思い出す。獏が悪い夢を全部食べてしまうんだ、と。本当は悪い夢ではなくて、むしろその逆だったのだけど。
「随分と好奇心が旺盛なお嬢さんだ。……その通り、人間が夢を見なくなった原因は私にある。私が、全ての人間の夢を喰べてしまっているからだ」
「それじゃあ、どうして私たちは夢を見たのよ? 貴方が、夢喰いをサボったから?」
 私は非難がましい目で獏を見た。彼は肩を竦めておどけて見せた。
「それは少し違う。まず、私が喰える夢は、睡眠中の人間の夢だけなのだ。意識を失っている者たちの夢は喰えない。だから、凍死寸前だったアル坊ちゃまや、酸素欠乏症に陥ったサナお嬢さんの夢は喰べられなかったのさ」
「でも、私は幼い頃、夢を見たわ!」
私は叫んだ。あの時私は、睡眠中だったはずだ。
「あれは、少し特殊な事例だった。あれはね、厳密には夢ではないのだよ。夢に女性が出て来ただろう? 彼女が引き起こしたことだ」
 あれが、夢ではなかったって? 頭がくらくらする。でも確かに、あの時見た夢は、美しさとはだいぶかけ離れていたような気がする。
「……でも、それじゃあ、あの女性はいったい誰だったというの」
「あれは、ローレライだよ。サナお嬢さんはローレライの誘いに乗ってしまっただけなのさ。お嬢さんがその後、自殺未遂にまで及んだのも、ローレライが原因だ」
 それを聞いて、私は膝から崩れ落ちそうになった。何もかもが、少しずつズレながら廻っている。私はその中心でただ振り回されていただけの哀れな人形だったのだ。
「何だか私、一人で勘違いをしていたのね。……それと最後の質問。あの影たちはなんだったのかしら」
「あれは、夢幻だね。夢を見て、死んでいった者たちの肉体に宿っていた、ほんの僅かな、それこそ塵か、それとも影のような、残留思念みたいなものだよ。ただ現世に恨みを募らせる、悪霊のたぐいだ」
「サナ御嬢さんの手助けをした影は、アル坊ちゃまの残留思念だね」
 獏は、思い出を語るように、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。夜空が星を紡ぐように、それは美しい行程だった。
「当然、昔は夢を見て人が死ぬ、なんてことは起こり得なかった。それだけ、人々が現実の世界に希望を抱いていたからだ。しかし、残酷なまでに時は過ぎ……一度終わりを迎えた世界では、希望を持つ者など皆無になってしまった。世界が再生したのはつい数十年前の出来事だ。それ以来、希望を抱く者たちが、少しずつではあるが、増えてきている。いつか、私が役目を終える日も来るだろう」
 最後に、獏は寂しそうに笑った。それを見て、私は反射的に問う。
「役目を終えたら、貴方はどうなってしまうの?」
 その答えは、多分分かっていた。それでも、聞かなくてはならないだろうとそう思った。
「役目を終えた言い伝えは、消えてしまう運命にある。だが、それは私が望んだことだ」
 獏は、こほんと咳払いをして、それから優しい眼で私たちを仰ぎ見た。
「夢を予め喰うことは出来なくても、夢を見ている最中ならば、その夢を喰べて差し上げることは出来る。ただし、目覚めるためには、お二人ご自身の意志が必要だけどね」
「アル、どうする? この夢の世界を去ってもいいって、思える?」
 アルはじっくり十数秒も考えた後に、こう言った。
「ここは素晴らしい世界だよ。退屈もしないだろう。……それでも俺は、サナと一緒に生きていたい。逝きたくはないな」
 アルはいつになく真面目な表情で、私に言った。私は頷いた。
 そういえば、と私は思い出したように彼に言う。何だか気恥ずかしくて少しだけ頬を紅く染める。
「ブバルディアの花言葉、愛の誠実、幸福な愛って意味もあるんだね……」
「うん」一方の彼は随分とあっけらかんとしていた。私ばかりが彼に振り回されていて、釈然としないので、仕返しをしてやることにする。
「これ、あげるよ」
 私は懐から一本の紅いブバルディアを取り出して、彼に差し出した。その時初めて彼が照れたようにはにかんだので、愉快だった。
「……それじゃあ、帰ろっか」振り返れば、残酷なくらいに美しい光景。私たちの存在は、水彩画に鉛筆で雑多に描かれた落書きみたいに場違いだ。
「そうだね」
 あまりに良過ぎるこの夢を、ずっと見ていたい気持ちもするけれど、それでも私は彼と一緒に現実を歩んでいきたい。
 私たちなら、どんな障害だって乗り越えられると思うから。
「それでは、お二人の夢を、私が喰べて差し上げよう」
 夢喰い獏は、丁重にお辞儀をすると、手に持ったステッキで、私たちの肩を二回ずつ叩いた。
 刹那、喉の奥から何かが溢れて、それはたちまち怪物のような姿になって、口から吐き出された。
 突然の出来事にえずいている間に、景色は一変した。
長い夢から目が覚めたように、意識がはっきりする。輪郭が少しずつ鮮明になって、帰ってきたことを実感した。ただ、最悪なことに、ここは水底だった。
 服が重い。酸素は皆無。この上なく、死の淵に近い状況だ。
 しかし、突如身体は浮かび上がった。まるで水流に乗っているような速度で、見る見るうちに浮上していく。水面の光は、あっという間に目前まで迫った。
 水面を突き破る寸前、私は真下を見た。すると、驚くことにあのローレライが、私たちの背中を押しているではないか。
 ローレライはやっぱり寂しそうに微笑んで、また湖の中に沈んでいった。彼女の行動は不可解だ。けれども、一から十まで全てを知り得ることなんて、できっこない。例えばそう、夢の世界でもなければ。
これからも、彼女は数多の人を水底へ誘うだろう。それでいいと思う。お陰で、私たちは世界一美しい場所へ行けたのだから。
 ガラビアはびしょ濡れだった。私たちは二人して昆布お化けみたいな有様だった。
 余韻を挟んだあと、私はぽつりと言った。
「みんなみんな、儚さ満ち満ちて死ねばいいのにね」
 多分きっと、それが、世界で一番優しい死に方なんだと思う。
「僕もそう思う」そう言って、アルは笑った。
 私も表情を緩めた。
「でも、私たちは違うね」
「この薄暗い世界で懸命に生きて、その果てで死ぬのがお似合いだろうね」
 私は頷いた。それから、彼が私の顔を見た。
「行こっか」
 アルはこちらに向けて手を差し出した。私は、力強くその手を取った。お父さんやお母さん、それから、村の皆にも報告しなければならない。私たちが無事であることを。
 そして、恋人のように寄り添って歩く私たちを見て、また誰かがからかうはずだ。だけれども、私はもうどんなからかいも、陰口も、気にも留めないだろう。
 何故なら、私たちは夢にまで見た恋人同士なのだから。

                        おしまえんど
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