それから俺たちは他愛の無い話をしながら、かき氷の山を少しずつ小さくしていった。いよいよかき氷を食べ終わり、皿の底に残ったシロップを一気に飲み干し(咽返りそうなほど甘かった)、食器を片づけるかという時になって、店の二階から中学生と思わしき男子が降りてきた。
「おい、客がいたのか」
 と伊原に小声で聞くと、伊原は「違うわ」と言った。
「二階は大石さんの住まいだから。息子さんよ」
 少年は階段の途中で俺たちに気付くと、ぺこりと頭を下げた。なかなか礼儀の適っている中学生じゃないか。俺たちも頭を下げる。
 そんなことをしていると大石さんが飛んできて、「どうもすみません。うちのせがれです」と紹介を始めた。
 大石幸二。中学三年生。受験勉強が忙しい年頃だ。見れば、小脇に本を抱えている。参考書か何かと思ったが、大きさからするに文庫本のようだったので、少し気になった。
「それ、何の本だ?」
「これ? これですか。梶井基次郎の『櫻の樹の下には』ですけど。もしかして先輩、知っているんですか」
 あれか、桜の木の下には死体がどうとかいう。読んだことはないが、俺でも名前くらいは知っている。古き良き古典小説なのだろう。
 そんな感じに言葉を返すと、今度は里志が、
「『櫻の木の下には』も相当に有名だけど、梶井先生の作品の中じゃ、『檸檬』が一番知られているよね」
 と物知り顔をした。なるほど、『檸檬』なら、俺も齧った程度には読んだことがある。
「『檸檬』ってあの、若干鬱気味の主人公がレモンを爆弾に見立てて店の隅に置いてって、爆発する様を思い描いて気分爽快っていう薄暗い話よね?」
 そう言いながら伊原は眉を顰めた。その言い方には問題があるが、あながち間違いではない。
「実際に読んでみなければ、そんな認識になっちゃうのも仕方ないかもしれないけど、梶井先生の話は一度は目を通してみるといいよ。清涼とは言い難い小説ばかりだけど、とても清澄なんだ」
 里志の言葉に、幸二が二度三度頷いた。
「どれもとても素晴らしい作品ばかりですから。しかしまあ、『檸檬』なんかはまだ有名だからいいですけど、『犬を売る露店』や『太陽と街』なんかは書店に行ってもなかなか売っていないので困りますね。いつか読んでみたいとは思うのですが、なかなか機会がなくて」
 はて、図書館に置いてあったかな、と記憶の糸を手繰り、それからそんなこと俺が知っているはずもないと思い返す。
 すると、何かを閃いたように千反田が手を打った。
「そういえばわたし、"ブラウザ"で昔の小説を無料で読めると聞いたことがあります。確か、梶井さんの小説もそこで読めたと思いますよ」
 ここぞとばかりに里志が補足する。
「青空文庫だね。著作権保護期間が過ぎた小説を自由に閲覧することができるサービスだ」
「幸二さんは、"ブラウザ"で青空文庫を読んだりしますか?」
 千反田が問うと、幸二は少しはにかんだ。
「ええと、そもそも"ブラウザ"ってなんですかね……?」
「"ブラウザ"はですね、検索機能の付いている……ええと、辞書みたいな……便利な……」
 千反田も説明に窮したようなので、俺が助け舟を出してやる。
「インターネットのことだ。パソコンの」
 幸二は「ああ、なるほど」と得心したように言って、それから、
「僕はあまりそういうものには詳しくないので。それに……」
「それに?」
「それに、小説は紙の媒体で読むのが一番ですから」
 なるほど。それには俺も同意だった。ページを捲る時の胸の高鳴り。白い紙に滲んだインクの黒。残りのページ数から想像する物語の終わり。それは、本という形をとらなければ味わうことができないものだ。
 そんなふうに会話に花を咲かせていると、それまで黙っていた大石さんが声色を低くして、
「幸二。今日も図書館に勉強をしに行くんだろう? 早く支度をしなさい」
 と言った。
「言われなくても、分かってるよ」
 先ほどとは打って変わって、幸二は刺々しく呟いた。
 受験生というのも、なかなかに大変なのだ。
 幸二が二階へ上がっていくのを見ながら、大石さんはため息を一つ吐いた。
「すみませんね。うちは父子家庭なものですから、あの子にはどうも期待をしてしまうんです」
 期待、か。俺には無縁の言葉だが、期待をするのも、されるのも、それぞれに苦悩があるのだろう。
「さて、そろそろ店を案内しましょう」

   4

 食器を片付けた俺たちは、大石さんに店の設備の案内を受けた。店に入って右手には二階へと続く階段が奥へと続いている。これは大石さんの住まいへ続いているので、当然立ち入り禁止。店内にはテーブル席が設置されているが、訪れる客の九割は食べ歩き客なので、案内する機会はほとんどなく、セルフで使わせていいらしい。
 店の奥にはカウンター席があり、その向こう側にキッチンがある。かき氷はそこで作る。
 キッチンの左手には扉があり、その先は小さな倉庫だった。冷凍庫も幾つか並べてあって、材料はその中に揃っているということだ。この倉庫は扉が三方向に付いており、一つはキッチンへ、一つはガレージへ、一つは裏庭へと続いていた。
「ガレージに続く扉と裏庭に続く扉には、鍵が掛かっています。内側から外へ出るにも鍵が要るので、気を付けてください。使うことはないとは思いますが、非常口の役割も果たしていますので、非常時はこの鍵を……ってあれ?」
 大石さんは顔を顰めて、周囲を見渡した。
「どうか、しましたか?」
 千反田が尋ねる。
「鍵をここに掛けていたはずなのですが、ないんです」
 壁から僅かに突き出た釘。普段はそこに鍵を引っ掛けているらしい。見れば、確かに鍵は掛かっていない。床に落ちたのではないかと思い、視線を向けるがそこには作業台があるだけで鍵は見当たらない。
「参ったなあ。別の場所に置きっぱなしにしてしまったのかも知れない……。すみませんが、ここは通れないということで」
 俺たちは頷いた。ガレージや裏庭には特に用もないし、支障はないだろう。
 店の案内を終えると、大石さんはにこやかに「それじゃあ、店は任せます」と言って、そそくさと出掛けて行ってしまった。
「本当は、僕も手伝いたいんですけどね」
 再び二階から降りてきた幸二は、心底残念だ、というふうに肩を竦めた。
「前から頼み込んでいるのに、父さんったら勉強しろの一点張りで……」
 表情に暗い陰を落とす幸二を、千反田が宥めた。
「勉強はしておいたほうがいいですよ。今は大変かもしれませんが、きっと頑張ってよかったと思える日が来るはずです。夏祭りはきっと来年も、再来年もありますから。受験が終わってから、いろんなことを楽しみましょうよ」
 幸二はしばらく俯いていたが、やがて吹っ切れたのか、
「まあ、踏ん切りはもう付いていますから」
 と言って面を上げた。
「千反田はああ言ったが、あまり根を詰め過ぎんようにな」
 鞄を持って店を出ようとする幸二に、俺は言った。
「大丈夫ですよ。ほら」
 口が開かれた鞄の中に、参考書やノートに混じって、数冊の小説が入れられているのが見えた。大方、勉強の合間の息抜きにでもするつもりなのだろう。俺は苦笑する。こいつ、ちゃっかりしている。

 幸二を送り出した後、俺たちはいよいよ気持ちを仕事に切り替えた。
「まず決めるべきは、役割分担よね」
 立場上、今回の仕切り役を務める伊原が意気揚々とスカーフを頭に巻いた。俺たちもそれに倣う。
「わたしとちーちゃんが接客、福ちゃんと折木が裏方っていう感じで、異論はないと思うけど」
 異議の声は上がらなかった。
 俺とて愛想笑いを浮かべたり、声を出さなければならない接客よりは、黙々と作業できる裏方のほうが性に合っている。他の三人は、どちらもこなせるのだろうが。
 俺と里志はそこから更に話し合い、里志がかき氷を作り、俺が材料や食器類を運ぶという形で収まった。
 時刻は十二時四十五分。バイトは五時までの予定なので、あと四時間以上ある計算だ。おそらくは暇な時間が続くだろう。
 ……その予感通り、二時を過ぎても客は二十人足らずしか来なかった。これから客足は伸びるだろうか。正直心配である。店先で千反田と伊原が懸命に客寄せをしているが、そもそも下町祭り昼の部に参加する人が老人ばかりなせいで、ほとんど客を捕まえられていない。老人というのは、冷たい食べものを厭うのである。その代わり、世間話のために立ち止まる人は多く、退屈はしなさそうだった。
 仕事なぞ微塵も回ってこない俺と里志は、空調で涼みながら、どこか遠くを眺めていた。このバイトに四人も必要なかったのではないか、と心の底から思う。いや、楽な分には構わないが。
 それでも三時ごろには数分に一組は客が来るようになり、多忙ではないが暇を持て余すこともない、ちょうどいい具合になってきた。
 そんな折だった。
「ホータロー。イチゴ味のシロップがなくなりそうなんだ。代わりを持って来てくれるかい」
「分かった」
 里志の頼みを受けて、カウンターから物置へ向かう。予備のシロップは、冷蔵庫に保管してあると大石さんから聞いていた。
 扉を開けて倉庫に足を踏み入れ、照明を点けた俺は、思わず息を呑んだ。妙な圧力鍋が、作業台の上においてあったからだ。
 その圧力鍋からは幾つかのカラーコードが伸びており、蓋の上に設置されたキッチンタイマーに繋がっている。
 そして、メモ書きが添えられていた。
『ゲームをしましょう。この圧力鍋は時限爆弾です。制限時間内にコードを四本切らなければ、それは爆発します。
 ただし、五本のコードのうち、一本はハズレのコードです。ハズレのコードを切断した瞬間に圧力鍋は爆発します。
 さあ、貴方はどうしますか?』
次へ 前へ 戻る
inserted by FC2 system