死に至る独白
                                       ウェル

 私は今日死ぬ。
 何でもないように、はっきりした境界線があるわけでもなく、まるで浅瀬から海へと歩んでいくように、静かに、音もなく、さざ波に導かれるようにして死ぬのだ。
 別に望んで死ぬわけではない。ただ自分がこれからする行動の先には確実に死が待っているというだけの話。
 やろうと思えば回避できる死である。しかし私はそれをしない。何故ならばそれは私がこれまで生きてきた理由を全て否定することになるからだ。
「これは私の独白です」
 私は気配のない部屋で一人そう呟いていた。誰に向けてでもない。あるいは、自分自身に向けてなのかもしれない。
 ただ吐き出してしまいたいと私は願った。夜明けまでにはまだたっぷり時間がある。
 部屋の外では、蒼く輝く月が地上に光を撒いていることだろう。かつて、私たちが願ってやまなかった光景だ。それももう、何の意味も為さなくなってしまったが。
「死に至る独白を」
 青白い吐息が、仄かな灯に照らされる。時計は静かに二十七時を指していた。
 遠くで黒猫の鳴き声が聞こえて、私は静かに目を閉じた。

      ◇    ◇    ◇

 私は生まれた直後から、神様の悪戯のせいで光に滅法弱かった。
 幸いにもこの世界の光は大して強くなかった。蒼穹から降り注がれる光はろ過装置のような水蒸気の膜に遮られ、地上には大幅に褪せて届くからだ。
 灰色の雲はフィルターのような存在だった。日中に外出することは滅多にしなかったが、フィルターのおかげで気まぐれに厚着をして外出することは可能だった。
 しかし褪せた光の中で過ごしていても楽しくなかった。光は全く美しいと思えなかった。数年前までの私は、死んだ魚のような目をして過ごしていたのだ。アルビノによって蒼くなった目を曇らせたまま。
 いくら日光が弱いからと言っても、身体に毒なのは確かだった。そのため、私の行動時間は主に夜となった。幸いにも育ての親は私の病気に一定の理解を持っていた。そして有難いことに私を信用してくれていた。

 さて、まずはこの世界の状態を説明しなければなるまい。端的に言ってこの世界は終わりを迎えていた。
 日光や月明かりが雲を通してでしか届かないのもその影響だった。世界中の空を厚い雲が寸分残さず包み込み、蓋をしてしまったのだ。それから異常気象が頻発するようになり、大地は枯れ果て、数多の生物が絶滅し、またはその数を減らした。
 人々は希望を失い、ただ徒に日々を過ごしてきた。私もまたその一人だったのは事実だ。
 私は幼少の頃、西方のロシアと呼ばれる土地で家族を失って死にかけていたところを今の育ての親に拾われた。彼らは若い頃、よく旅をしていたらしい。それはもう十年以上も前、交通網が僅かに残っていた頃の話だ。
彼らは私を大切に育ててくれた。飼い猫である黒猫は幼少の頃に良く一緒に遊んだし、一時期は母親が編んでくれた人形にも夢中になった。感謝してもし足りない。
 今は千葉と呼ばれる、この地域一帯では最大の規模を誇る街の中で暮らしている。人口は推定三千人。その多くはお金を持った大人と老人で、私のような子どもは少なかった。
 子どもたちの多くは親を亡くすか、もしくは捨てられ、郊外にあるらしい孤児院に連れて行かれることが多いのだという。

 私は日中においては日差しが入り込まないようカーテンを固く閉ざし、床に就いていた。夜になると食事を手早く済まし、蝋燭に火を灯して読書をした。蝋燭の灯は不思議と心を落ち着かせてくれる。直接光を浴びるのは危険だったので、半透明のカバーを被せた。こうすれば苦しくなかった。
 この家には本が多く、ジャンルも様々だった。ミステリー小説、恋愛小説、ファンタジー小説、SF小説、歴史書、生物図鑑、それから伝承。
 私は毎夜毎夜それらを読み耽り、夜明けとともにベッドに潜りこんだ。自堕落な生活だとは分かっていたが、叔父さんと叔母さんはそれに対して何にも言って来なかったし、私も外の世界には何の希望も抱いていなかったので、改善しようとも思わなかった。ただ本の世界が好きで堪らなかった。

 幾年も過ぎて、ついに本の貯蔵が尽き始めていた。思い出しきれないほどの本を読んだ。気が付けば食わず嫌いしていた勉学系の本ばかりが残っていた。
 ある夜、私は薄くてサイズの大きい本を手に取った。
「星の地図……?」表紙に書かれたそのタイトルを読んで、私は唾を飲み込んだ。
 星と言う言葉は聞いたことがある。雲の向こうにある点々とした光のことだ。無論見たことはない。
 私は少し興味が沸いて、本のページを捲った。そしてガッカリした。何が星だ。文字通りただの点じゃないか。
 紙上に数多の点が不次に散らばっていて、何でもそれを星座と呼ぶらしかった。なるほど、確かに星を線で繋ぐとそれっぽい形になるかもしれない。だがそれが何だと言うのだろう。ここに載っている星は光ってもいないし、美しくもない。これっぽっちも魅力がないのだ。
 しかし何故だか私はこの星の絵を見て、この部屋に窮屈さを覚えたのであった。蝋燭の灯りに燈された暗い部屋。私以外誰もいない部屋。
 無性に部屋を飛び出したくなった。じっとしているのに耐えられなくなったのだ。
 私は思い切り部屋を飛び出した。長年鎖に繋がれた虜囚がその縛めを解かれた時にするように、意気盛んに身体を操った。激しい動作をしたのはもう何年かぶりで、途端に関節が悲鳴をあげて膝が崩れかけたが、歩みは止めなかった。
 廊下を抜け、玄関でもう数ヶ月は履いていない靴を履いて、家を飛び出した。
 暗かった。宵闇が辺りを覆い、静けさが空間を支配している。これじゃ何も見えないなぁ、そう思いながら辺りを見渡すと、いつもはただ夜空を薄墨色に覆っているはずの雲が、何故かこの時は北の遥か向こうの方に小さな切れ目を作っていた。
 その隙間からは僅かだが、光が注いでいた。小さな光だった。それも一つだけではない。数多の光が束になり、優しく地上を照らしていた。
 私の瞳が“らん”と煌光を宿す。夜空と同じ藍色に染まる瞳はやはり夜空と同じように、星の光に照らされたのだった。
「綺麗……」
 いつの間にか声が出てしまっていた。あの下まで行きたい。そう思って一歩を踏み出したところで、大きくバランスを崩して私は地面に転がった。いつも着ている白いワンピースが汚れようと構わなかった。私はずっと遠くの雲の切れ目をじーっと眺めた。あの光の下で寝そべってみたかった。あの優しく柔い星の光なら、アルビノの私が受けても大丈夫かもしれないという根拠のない憶測が頭の中を駆け巡った。
 歩くことさえおぼつかない今の私では、あの光の下へ辿り着くのは不可能だろう。仮に辿り着いたとして、その後来る夜明けのことを考えると空恐ろしくなってしまう。
 結局私はひとしきり北の空を眺めた後、未練を残しつつも家の中へと引き返していったのであった。私には勇気が足りなかった。もしもあと一歩、踏み出すことができたなら。後から考えたって仕方のないことだった。
 しかし一つだけ確かだったのは、私はこの日初めて星空を見たということだった。

      ◇    ◇    ◇

「ふぅ……」
 私は青白い息を少し吐いて、一呼吸を置いた。随分長いこと独白を続けていた気がするが、時間という概念に押し込めてしまえば精々数分だ。
 改めて自分の部屋を見渡してみると、ガラクタばかりが散らばっているように思えた。色褪せた地球儀、星を写した古い写真、ボロボロになった星座の本、それから片割れを失った通信機。
 どれもこれも、記憶が詰まった品だった。今はそれこそガラクタと揶揄されても仕方のないくらいに埃を纏っているが、かつてはかけがえのないモノだった。
「これはなんだっけ」皺だらけの小さく細長い紙。どこかで見たような、願い事。
 掠れた文字で『二人でいつまでも星が見られますように』と書かれている。
「ああ、そうだったね……」
 これらのガラクタがまだ私の宝物だった頃、私はある一人の少年と出会ったのだった。

      ◇    ◇    ◇

 初めて星を見た日から、私はあの光を忘れることができなかった。ただでさえ自堕落な毎日を送っていたのである。あの幻想的な光が私の中に強烈なシグナルを残し、それ以外を考えることすら許さなくなってしまったのだ。
 そこまで、ある種洗脳とも言えるほどに情熱的に、あるいは盲信的に星を追い求めるようになってしまったのは、私が箱入り娘だったということが第一の原因であると思う。
 ほかになにも知らなかったのだ。だから私には星しか見えなかった。
 本当は依存する何かが欲しかったのかもしれない。これまでは本だった。これからは、星なのかも知れない。
 私はまず、リハビリをすることから開始した。あれから毎夜、家を抜け出しては北の空に星が覗いていないかチェックしたものの、訪れる気配はまるでなかった。
 あの日だけが特別だったように雲は再び天を鎖し、私にもう一度あの光景を見させてはくれなかった。
 それでも私は諦めなかった。いつか、いつか再び雲が晴れ、星空が現れる日がくるはずだ。来たるべきその時のために、まずは一夜で地平線まで行けるくらいの体力が欲しかった。
 そうでもしなければ、星の光を浴びることはできない。
 最初のひと月は家で簡単な運動を始めた。それから、少しずつ家の外に出、行動範囲を広げ始めた。もちろん夜中にだ。

 誰が言い出したのか、“星空に最も近い丘”と揶揄される高丘があった。
 星見ヶ丘と名づけられたこの丘で、私は独り、佇んでいた。
 見渡す限り他に誰もいない。ただ陽炎のように揺れる僅かな草花が、哀愁を漂わせてこの地を彩っていた。
 ここは、千葉の街から徒歩で訪れられるほど近く、かつ良く星が見えるということで天体観測に最も相応しい場所だった。
 天を仰ぎ見ては、途方もなき孤独を知った。そしてこの広い空を飛べない私は何処へもいけないことを悟った。
 またあの光を見てみたい。その想いだけを抱えて、私は毎夜この丘を訪れるようになっていた。寒風に凍えるような日も、雨風に曝されるような日も、とにかく毎夜訪れることを辞めなかった。
 もしも今日行かなくて、そのせいで見られたはずの光が見れなかったら。そう思うと怖くて怖くて仕方がなかったのだ。
 一人で過ごす夜は退屈だったが、丘の上で大の字に寝転がって空の様子を眺めるのは好きだった。風に攫われ、髪がさらさらと流れる。雲は少しずつ、本当に少しずつではあるが、ゆっくりと東へと流れていくのを知った。
 少しずつではあるが、塞ぎ込んだ生活から立ち直っていった。夜に行動し、朝に眠るサイクルはそのままであったが、朝食の準備をするようになった。何でもないことなのに、叔父さんと叔母さんはとても喜んでくれた。
 星空に関する資料も集め始めた。蔵書の中から、星に関するものをピックアップし、時にはページを切り取ってファイルにまとめた。
 こうして星明かりを目指し始めて一年半が経ったある日のことだった。
 その日は天気が大荒れだった。土砂降りのような雨が辺り一帯に降り注ぎ、家から一歩出ただけで全身をずぶ濡れにしてしまうほどだった。それでも私は外に繰り出した。日課を止めるわけにはいかなかった。この雨の影響で、雲にも何らかの変化が起きているかもしれない。見逃す手はなかった。
 降りしきる雨の中、私は懸命に走った。傘を差していこうかと思ったが、風も強かったため断念した。私の細腕では支えきれないことは自明の理だった。
 明日は風邪を引くかもしれない。というか十中八九そうなるのだろうけど、それが何だろうか。風邪を引いたところで私の生活に支障はきたさない。
 そんな考え事をぐるぐるとリピートしながら丘へと駆けた。身体中に落ちてくる雨を振り払い、切り裂きながら。そうしてようやく見えてきた丘。一寸先さえ闇が蔓延っていた。
 刹那、稲妻が空を登った。迸る電流に地表は一瞬照らされて全てを露わにした。丘の地形も、雨の罫線も、それから先客の姿も。
 見慣れない少年だった。よくよく考えてみれば見慣れた人間など叔父さん叔母さんしかいないのだから当然だが。
 後ろ姿ゆえ、はっきりとは分からなかったが、少年は懸命に空を見上げ、その瞳に夢を写そうとしているようだった。夏と言えど、しんと冷え切った雨を全身に浴びているのだ。衣服の隙間から見える肌は体温を大幅に奪われて、かつて故郷で目にした雪のように白くなっていた。
 それでも少年からは目に見えぬ力のようなものを感じられた。それが何なのか形容する言葉を私は持っていなかった。
 少年は静かに俯いた。その佇まいを見て、今度は深い悲しみのようなものが脳裏に浮かんだ。
 いったいこの少年はここで何をしているのか。何を探そうとしているのか。
 自ずと答えは見いだせた。この場所に来る理由など一つしかない、私と同じなのだ。
 私と同じように、この大雨の日なら星が見えると考えてこの場所にやって来たのだ。しかし、いくら目を凝らしても、月や星はその影すら見せてくれない。
「……!」それは、少年がこちらを振り向くのと同時だった。
 月が、微かにだがその輪郭を現したのだ。月を覆い隠す雲の膜がちょうどその部分だけ薄くなっていたのだった。
 私は咄嗟に右腕を掲げた。そのちゃちな指先で月の輪郭を指差した。私の腕は、少年より遥かに白くなっていた。
 少年は私の指差す方向を目で追い、それから息を呑んだ。それは紛れもなく、私たちが求めて已まなかった“夢”の標だった。

      ◇    ◇    ◇

 埃を被った部屋に黒猫が足跡を撒いた。見れば何かを咥えているのではないか。抱き上げようとしたが、猫はスルリと私の手を潜り抜け、何処かへ走り去ってしまった。
 昔は良く懐いていたのにな、と心なしか寂しく思った。
 猫は何かを持って行った。何を持って行ったのか少し気になったので、無くなったものを探すことにした。
 戸棚の上には、伏せられた写真立てに、煙を吐いた小さな灯。見ないフリをして別の場所を捜索する。
――そういえば猫は、死ぬときは誰にも見られずに死ぬんだっけ。
 そんな記憶があったような、違ったような。
 ガラクタの山を掻き分けながらそんなことを考える。他人事ではない。私も死に場所を選ばなければならない。
 しばらく探したが、流石に無くなったものを探すのは無理があったみたいだ。私は諦めて部屋の真ん中に大の字で寝転がった。
 少年と二度目に会った時、私はこんな風に寝転がっていたっけ。いつものように、あの丘で。
 珍しく、本当に珍しく星の見える日だったのだ――。

      ◇    ◇    ◇

 豪雨の日から一週間が経った。
 その日は七夕だった。織姫や彦星宛てに、短冊に願い事を書くあのイベントだ。街で何やらイベントを開いていたらしいが、子供だましの下らないイベントだと思っていた私は参加しなかった。
 その日も日中は就眠していたのだが、これには少し後悔した。後から叔父と叔母から聞いた話によれば、お昼過ぎ、一匹のハヤブサが天に向かって飛翔し、雲を貫いてその先へ羽ばたいたという。
 夜になってみれば、確かに雲には大きな穴が空いていた。しばらくは塞がりそうにない。
 私は慌てて外に飛び出した。既に日も暮れ、世界はその色を藍色に染めていた。
 その藍色の向こうに微かな金色を見た。星明かりだ。
 今こそリハビリの成果を見せる時だった。決して早いとは言えないものの、まずまずのペースで走り、一時間もしないうちに星見ヶ丘に辿り着くことができた。
 その場所には――。
 その光景を、果たして忘れることが出来るだろうか。それは正に桃源郷と言ってよかった。
 抜け落ちていくような夜空の晦冥と、その表面に点在する宝石のように光る星の粒が視界いっぱいに広がり、私の胸の奥のほうから熱い何かが込み上げてくるのが感じられる。
 気がつけば、目から止め処なく涙が溢れ出ていた。遠くの夜空で、ほうき星が流れて消えた。三日月が笑っているように見えた。それらの景色は、今まで見たどんな景色よりも色鮮やかで私はひたすら眩暈がした。
 堪らず足元にすがるようにくず折れる私の視界は百八十度回転し、小さな草が頬を撫でるようにくすぐるのがおかしかった。
 仰向けに転がった私を包むように、星空が瞬いている。夜空の光は優しかったが、それでも少しずつ身体を蝕んでいるようだ。それでも構わないとすら思えた。ずっとこのまま、こうして居たかった。
 どれ程の時間が経ったか、それすらも曖昧になった頃だった。
 不意に何かがやって来て、私の脇腹に躓いてよろめいた。それは「おぅあっ……!?」と小さく叫び声をあげ、私の横に転がった。
「な、なんだ……?」月明かりに照らされた少年の顔といったら、面白いくらいに驚愕にまみれていた。
「それは私のセリフ。いきなりぶつかって来ておいて、その反応はどうかと思うよ」私は顔に喜色を浮かべた。
「ご、ごめん……。驚いたものだから、つい。それにこんなところに人がいるだなんて思いもしなかったんだ」
「まぁ、こんな場所で寝ていた私にも非があったわ。お互い様ということにしましょう」
 私は上半身を起こして、少年の姿を見た。一見何の変哲もない少年であったが、他の人たちとは違う何かがあるように感じられる。何だか、鏡に映した自分の姿みたいだ。
「キミ、一週間前の雨の日にもここに来てた子だよね?」
「一週間前の雨の日に限らず、私毎日ここに来てるわ」それは嘘偽りのない事実だった。
「そ、そうなんだ……。でも、キミはなんでここで寝てたの」
 少年が不思議そうに尋ねたので、私は再度寝転んで、同じ動作を促すように天を指さした。溶け出した空の欠片が煌びやかに舞っている。
 少年も寝転がったのを見てから、私は言った。
「今日は運が良い日。こんなに星を見ることが出来るのは、一年に一回あるかないかだから」
「年に一回あるかどうかっていう星を見るために、キミは毎日ここに来てるの?」少年は呆れたように笑った。
「そうね、私はここ数年毎日ここに来てる。何でって言われても、答えようはないけれど。それと、私の名前はコスモよ。コスモ=コンドラシン」
 コスモ=コンドラシン。それが私の名前だった。本当の親が唯一残してくれたものだ。
「そういえば自己紹介まだだったな。僕は米長翔。それで、やっぱりキミは遠くの地の出身なんだね。珍しい名前をしてる」
 少年は翔と名乗った。
「ロシアというところね。ヨーロッパの東端に位置する土地に生まれて、物心つかないうちにここに連れて来られたの」
 ヨーロッパ、というワードに彼が少し反応した気がしたが、追及はしなかった。
「連れて来られた、か。今はどこで暮らしているの? 孤児院ではないよね」
「千葉の街の中。一緒に暮らしているのは本当の親ではないけど、優しい人たちだから、寂しくはないわ」
 翔が頷いて、それからしばらく沈黙があった。
 一人で見ていた星空を、今は二人で共有している。何だか不思議な感覚だった。ただそこにあっただけの景色が、二人を不思議な絆で結んでいるように思えたのだ。
 この星空が最初からなかったなら、二人は出会うこともなかっただろう。
「ねえ、もしよかったら、宇宙のことについて教えてくれないかな」
 不意に少年はそう言った。

 私たちは文字通り時間を忘れて、宇宙についての談義を重ねた。私がこの一年半かけて培った宇宙の知識は遺憾なく発揮され、少年はただただ感心していたように見えた。
 気がつけば時刻は二十七時。残念ながらそろそろ戻らなければならない。雲に穴が空いている今、朝が来てしまえば命に関わるからだ。
 というより兆候は既に訪れていた。既に全身を鈍痛が襲っている。やはり夜空の光でも、身体に毒なのは変わりなかったのだ。
「眩しいね」言いながら笑おうとしたが、眩しすぎて上手く笑えたかは疑わしかった。
「よかったらまた、会おう」彼はそう言った。
「私は毎日ここにいるから、気が向いたらまた来てね」
「毎日夜に家抜け出して、身体壊すなよ」彼は笑い交じりにそう言ったが、私としてはどうしようもないことだと思った。
 雲は再び空に蓋をして、微動だにしなくなってしまった。それでも私は諦めなかった。またいつか必ず星が見える日が来ると信じていた。

 それ以来、彼とは度々顔を合わせるようになった。会う場所はいつも星見ヶ丘だ。それ以外の場所を、私たちは好かなかったのかも知れない。ここはまるで二人だけの秘密基地のような場所だった。
 私は今まで以上に熱心に、宇宙と星に関する情報を集めた。時には叔父さんの力も借りて、此処彼処に残されていた資料を集めていった。
 私の宇宙に対するあまりの熱意に、彼らも初めは目を丸くしていたが、それでも快く協力してくれた。
 リサーチを進めていくうちに、過去の宇宙開発に関する情報もだいぶ出揃った。千年前の超大国、アメリカ合衆国とソヴィエト社会主義共和国連邦。この二か国が主に宇宙開発を行ったらしいこと。
 私たちが現在住んでいる地域は、このうちのアメリカ合衆国と友好的だったこと、しかし地理的にはソヴィエト社会主義共和国連邦が近かったこと。
 そして、取り分け驚いたのは、ソヴィエト社会主義共和国連邦の国土が、私の生まれの地だったことだ。
 ソヴィエト社会主義共和国連邦では、宇宙飛行士のことをコスモナウトと言うらしい。この時知ったのだが、『コスモ』という言葉が持つ意味は『宇宙』らしい。
 それから、宇宙へ飛び立てるシャトルが何処かに残っているという噂がまことしやかに囁かれていることも。

      ◇    ◇    ◇

 二人が出会ったとき、私たちは知ったのだと思う。
 世界が私たちを置き去りにして終わりを迎えてしまったことを。
時代錯誤と言えるくらいに、私たちだけが希望を持っていたことを。
 だから私たちは、それこそ織姫と彦星のように、ただ惹かれ合う運命だったのだ。
 しかしあの日、私は取り返しの付かない間違いを犯してしまった。私のたった一言が、後の出来事のきっかけになってしまったのだから。
 あの時、もしも私が私の本心に気付いてさえいれば。然すれば、私たちは離れ離れになることもなかっただろう。
 私は身体を起こして時計を見た。二十八時だ。夜明けは近い。
 積み重なったガラクタの隙間から、古いレコードを発見した。最後に聴いたのはいつだろう。最初はただ、宇宙に関する歌だから聴いていたが、そうしているうちにハマってしまった曲だった。
 その曲のタイトルは『コンステレーション』。星座という意味の言葉だ。
 私は立ち上がると、再び部屋を物色し始めた。何かを忘れている気がしてならなかったのだ。
 ふと、姿見が目に入った。そこに映っていたのは、何でもない部屋の風景だけだった。

      ◇    ◇    ◇

 それはあれから半年が過ぎた日のこと。私の人生で三度目の、星が見られる日のことだった。
 後から知った話だが、『アネハヅル』という世界の観測者たちが起こしたことらしい。前回はハヤブサ、今回はアネハヅル。鳥という存在はどうしてこうもいつも奇跡を起こすのだろうか。彼らが、雲という檻に縛られない、大きな存在だからなのかもしれない。
 私たちはまず、半年ぶりに星が見られることを祝福し合った。私は前回の教訓を活かし、傘を持って来ていた。彼にはもう自分の病気のことは話してあった。
「雨も降ってないのに傘だなんて、何だか不思議な気分だな」
 その言葉に「雨の代わりに星が降ってくれるから、いいのよ」と、そう返す私だった。
「写真、持ってきたよ」私はそう言って、たくさんの写真を鞄から取り出した。
「これ全部、数百年も前に撮られたものなんだよな……」
 翔はしみじみしたようにそう呟く。そのせいで紙自体には劣化が始まっているものの、特殊な染料が使用されているためか画像は鮮明に写っている。
「こんな風に、いつでも自由に星が見られればいいのになぁ」
 私がそう言うと、翔は写真から目を離して目の前に広がる銀河を正面から眺め見た。
「いつか、宇宙に行ってみたいよね。翔くん、一緒に宇宙に行ってみない?」
 私がそう言うと、彼はこちらを向いて目をパチパチと瞬きさせながら、「そんなの、不可能だろ……」と言った。
「私、聞いたんだ。どこかにまだシャトルが残っているって」
 そう言いながら、視線をどこでもない先へと送った。翔が何とも言えないような表情をするのが解かっていたからだ。
「行きたいなぁ……。あの星たちに触れてみたいな……」
 光は静かに頬を伝う。それからしばらく、二人の間に言葉はなかった。
 その言葉とは裏腹に、私はこの届かない夢を二人で永遠に見られたら。そう願っていたのだ。

 さらに半年が経過した春過ぎのある日が、私と彼が最後に出会う日となった。
 その日、いつものように丘の上に集った私たち。淀んだ空に顔を顰めながら、私は翔に無線機を手渡した。電波が残っているところなら通信できる優れものだった。
「それ、なに?」
 翔は私が持っていた一枚の紙切れを指さした。
「短冊よ。知っているでしょう?」
 七夕の日が近かったのだ。翔はどんな願いを書いたのか訊ねてきたが、私は「内緒」とだけ言っておいた。
 もしもこの時、願い事を彼に話していたならば。
 結末は変わったのかも知れない。
 それも今ではもうどうしようもないことなのは確かだが。

      ◇    ◇    ◇

 この独白も終わりが近い。私は少しだけ安堵した。
「星が好きなんだ」と輝く目で話したあの頃を思い返すのが苦痛で仕方ない。
 それでも、忘れてしまえれば幸せなことなんて何一つないということは分かっているから、私は独白しなければならないのだ。
「キミの姿が見えなくなってしまったこの心では、大事だったことも忘れてしまうようで怖いから」
 まだ幾つか大切なモノを忘れているのに、何を忘れているのか思い出せないままでいる。空白を空白で埋められないように、それは私の中にポッカリと大きな穴を穿っていた。
 イトスギが植えられた鉢が、カーテンの向こう側に密やかに置かれているのを目にしたのだった。

      ◇    ◇    ◇

 ある日の昼下がり、突如地上を轟音が襲った。何の前触れもなく、唐突に起きた出来事だった。
 私はその時、床に就いていたのだが、あまりの轟音に飛び起きて、光を浴びるのも厭わず、窓を開け放して空を仰いだ。
 水色のパレットに水蒸気が軌跡を描いていた。空を切り裂く稲妻のように、一つのシャトルが轟々と爆音を響かせながら上昇していくのが遠目に見える。
 私は思わず家を飛び出した。途端に鈍痛が全身を襲ったが、歯を食いしばって丘を目指した。
 一歩一歩が鉛の足を引きずるように重く、さらに雲に空いた穴から差し込む日差しをもろに浴びるせいで頭痛と吐き気を催した。
 だが歩みは止めない。今行かなければならないと直感が告げていた。

 星見ヶ丘にたどり着く頃には、すっかり夕暮れになってしまっていた。
 月が私に気付かないままダイヤモンドのように輝くのを拳を握りしめて眺めていた。積み上げてきた日々が壊れてしまう気がして、私は無線機を手に取った。
「翔くん……?」恐る恐るの声に、彼の声。
「なぁコスモ、僕は今、月の上にいるんだ。ついに僕は……僕は……」
 その言葉を聞いて、目の前が眩んだ。
「知ってるよ。見えたもの。ロケットが雲を裂いて地球を飛び出すのを。もしかしたら、って思ったから……」
 振り絞るような声だった。
「ロケットが雲に空けた大穴があれば、きっとコスモもずっと宇宙を眺めてられるよ」
「……そうかも知れないね」
「コスモ、ここからなら何だって見えるんだ。すごい景色だよ。星が砂の数くらいあって、宇宙を照らしてる。太陽だってあるけど、ここからじゃ眩しすぎて直視は出来ないな。流れ星も見つけたよ。天の川と、ベガとアルタイルも。それから……」
 翔が嬉しそうにそう話すのが哀しかった。祝福するべきだっただろうか。でも、私にはそんな器量はなかった。
「翔くん、本当に何だって見れるの?」
「もちろんさ! ああ、でも遠すぎる星は流石に豆粒みたいにちっさいけど……」
「じゃあ、私の姿そこから見える?」彼のはしゃぐ声を遮るように、私は言ったのだった。
「ッ……」
 いつしか、しとしとと雨が降り始めて丘を水色に染め上げた。
「ねぇ、翔くんはもう、本当に遠くに行ってしまったんだね……」
 もう、会って話すこともできない。触れ合うことも、笑い合うことも、全て叶わなくなってしまった。
 宇宙の表情は忘れたくなるくらいに哀しみに満ち満ちている。いつの間にか目から涙が止め処なく溢れ出していた。
 言いもしないのに、理解してくれだなんて手前勝手だとは分かっている。でも、私はただ彼と一緒に星を眺めているだけで良かったんだ。それだけで、良かったのに……。
 もし私があの時、「翔くんと星が見られれば、それで充分だよ」と言っていれば、こうはならなかったのだろうか。
「さよなら」蝋のように白く、細い両の手で顔を覆った。
 五月雨の切り裂くような寒さが胸の内まで侵食していくようで、震えがいつまでも止まらなかった。

      ◇    ◇    ◇

 私は部屋を、そして家を飛び出した。

      ◇    ◇    ◇

 日光を浴びたせいだろうか。あるいは雨に長時間打たれていたせいだろうか。はたまた別の何かが引き金になったのか。何はともあれ、あれから体調は悪化する一方だった。
 寝たきりになった私の傍らには、いつも黒猫がいた。
 頭が熱を帯びたようにぼーっとして、次第に何も考えられなくなっていった。
 街に白い雪が降り積もるように、元在ったモノの何もかもを忘れてしまいそうだ。
 忘れてしまいたい、と私は思ったのかも知れなかった。
 そんな私を差し置いて、世界には夜明けが訪れた。
 ロケットによって突き破られた雲は天蓋としての役目を終え、かつてのように大空を流れるようになっていた。日差しが大地を照らすようになり、異常気象はまだ続いてはいるものの、多少和らいだらしい。
 皮肉なことだった。翔の行動によって空は解放されたが、私は星空を眺めることもできず、逆に日差しが届くようになったお陰でもう外に出ることも出来なくなってしまった。
 翔は何を思って宇宙に行ったのか。どうして私に一言も告げなかったのか。なぜ私を連れて行ってくれなかったのか。
 そんなことを考えながら、衰弱していく身体から目を逸らし続けていたある日、黒猫が縫いぐるみを私の元へ持ってきた。
 叔母さんが昔編んでくれた、私似の縫いぐるみだった。
「ありがとう……」
 黒猫は私をじっと見て、「にゃあ」と鳴いた。その様はどこか哀しそうにも思えた。
私も「にゃあ」と言って笑って、ゆっくり目を閉じた。
 それからのことが、どうしても思い出せないのだ。まるでもう、何もなかったかのように。

      ◇    ◇    ◇

 幾度となく駆け抜けた道を飛び越えていく。祈りを纏った星たちがただ地上に流れ落ちていく。
 夜明けを告げながら薄れていく月を呑み込むように、地平線から曙光が洩れ始めていた。
 ドクン、と心が脈を打ち、気がつけばあの丘はもう目の前に迫っていた。
 満月の夜、凛然と光り輝く星に手が届きそうなその丘の上に十字架が一つ。
 十字架に供えられた縫いぐるみは、西洋風の、銀髪にエプロンドレスを着飾った瞳の蒼い女の子をかたどっている。
 そしてその十字架の前で、一匹の黒猫が密やかに横たわっていた。

 漸く全てを悟った。私はもう――。

 丘の上に墓標が一つ。刻まれた『コスモ・コンドラシン』の文字を、指先でそっと撫でる。
 思い出した、たからもの。いつかの願いをここで交わしたこと。貴方と二人で星空を眺めたこと。
 彗星のような目から零れ落ちた光を、透き通った両の手が受け止めた。
「夜明けまでこうしていよう。貴方がまた笑えるように」
 宇宙地図の空白を埋めるように、いつしか眩いばかりの光が東から顔を出し、暗い丘を照らし出す。
 光はやがて、十字架を照らし、黒猫の亡骸を照らし、そして私を照射した。
 光は私を抜けて、世界のどこへでも届くだろう。希望を失くしたように見える世界を、それでも輝きを持って迎えるだろう。
 それはあの少年がこの世界に残した、希望の光なのだから。
 透明の身体は耐えかねて、ゆっくりと重心を失っていく。揺れる視界、閉じた目蓋。
 それでも白い光がいつまでも、いつまでも目蓋の裏に視え続けた。
 それは不思議といつもより苦しくない、そんな日差しが私を死に至らしめた朝。
DEAD END

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