『白黒回廊』
                    ウェル

ひどく無機質な階段が、視界に縦横無尽に広がっていた。
 上から下へ、左から右へ、斜めへ、前から後ろへ。
 節操もなく、あちらこちらへと続く階段はそれぞれカラフルに彩られていて、ルービックキューブのようにカタカタとその色を変化させていく。
 その螺旋に足を一歩踏み入れた瞬間、鈍い光が辺りを包み込み、視野を眩ませ、そして気づいた時にはモノクロな世界がそこにあった。
 その様子を、静かに眺めていた。
 天を覆う白い天井。雨の日には、黒く染まるのだろうか。
「あっ……」
 翳した手のひらに色は無かった。
 どうやら私は、モノクロの世界に囚われてしまったようだ。
 私の世界には色がない。白と黒だけの、至極味気ない世界。
 古いぼろぼろの白黒写真のように、しわくちゃの古新聞紙のように、モノクロテレビのように、色だけが抜け落ちてしまったみたいだ。
 いまさら戸惑う事はない。私は知っているのだから。
 モノクロな世界に落ちてしまったのは、私自身が原因であるという事を。
 そして、私はもう一つ知っている。
――細波の音も、潮の匂いも変わらず傍に居てくれている。
 それだけで良い。――
 私はもう、色のある世界には戻りたくなかった。

       ◇    ◇    ◇

「Dimly Dimly」
 無菌室のように真っ白な部屋で、真っ黒なメロディを口ずさむ。
 室内には置物こそあるが、どれも白と黒で成り立っているため、生活感や人間味に欠ける。
 背の低い箪笥の上に置きっぱなしの、お気に入りだったテディベアも今では真っ黒で嫌悪感すら抱く。
 可愛げのない瞳で、こちらをじーっと伺ってくるのだから、最早オカルトグッズの類と考えても差し支えないだろう。
 そう考え出すと、無性に気味悪くなってしまってどうしようもないので、無造作に腕を振るってその柔らかい胴体を吹っ飛ばす。
 箪笥上から床に落っこちて、一回バウンドして跳ねた後、テディベアはカーテンの奥へ潜り込んで見えなくなってしまった。
「ふぅ……」
 白色の、しかし木製の床を黒色のニーソックスで横断して、これまた純白なベッドへ倒れこむ。
 ふわり、と白い布が舞って心地よい柔らかさを肌に訴えかけてくる。
 沈み込んで、このまま制服姿のまま寝てしまおうかな、と漠然と考えていると、モノクロームな視界の端で何かが、ぶるるっと震えた。
 上体を起こして、それを見る。
 本来のカラーは青なのに、やけに黒ずんでしまったその携帯電話は、教会の鐘と思しき荘厳なメロディを奏でている。
 なぜこの着信音にしたのか、私にもよく解からない。
 数ヶ月前に買ったこの携帯電話に標準搭載されていたので、何となく設定してみた。詳しくは覚えていないが多分そんな理由だと思う。
 そしてこの、到底流行の音楽とは思えないこのメロディなのだが、
一説では、『その教会で結ばれた男女は、永遠の愛を約束される』とされる古い教会の鐘の音らしい。しかしどうやらその教会は今は現存していないという。
 そんな伝記みたいな話を信じる性質でもないので、どうでもいいと思う。
 ――だけど、本当にその教会があったのなら。
「はぁー……」深く息を吐いて、バイブレーションで小刻みに揺れる携帯電話を掴むと、送信者名を一瞥してから二つ折りのそれを開いた。
「もしもし」
「あ、もしもし。鼎《かなえ》さん?」
 彼の声が、電波となって通信施設を経由して私の携帯電話へと送られてくる。
 少々エレクトリカルなその音声に、返事を送った。
「はい」
 出来る限り素っ気無く返したつもりだが、受話器の向こうの青年は気にも留めずに話を進める。
「最近、どう?」
 そもそも、名乗る事すらせずに「最近、どう?」はないだろう。
だいたい、近況を聞くためにわざわざ電話をして来たのだろうか。
 違うのであれば、さっさと本題に入ってほしいところだ。
こういう無駄な段取りは極力省きたい性質なのだ、私は。
「特に代わり映えもしないわ」
「え……。そう? いや、でもさ、白と黒だけじゃつまらないでしょ」
 何だ。やっぱり本題があるんじゃないか。というか知っているんじゃないか。私の世界から色が抜け落ちている事も。
 回りくどいやり方は嫌いだって知っているくせに。と心の内で文句を垂れながらも、彼の提示する『本題』へと思考を切り替えた。
「つまらなくても、平穏であればいいの」
 例え空の色が白色になろうと、海の色が黒色になろうと、それは別段気にするほどの事でもない。
 色なんてものがあるから、人は傷つけ合うのだ。違う色があれば、寄って集ってそれを攻撃する。それが人の性だと思う。
 妙な色になって、傷つけられるのが怖かった。そうして嘲笑されるのが堪らなく怖かった。
 つまるところ私は臆病なだけなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
 ただ臆病で、怖いだけ。怖いなら、逃げていいじゃないか。別にわざわざ怖いものに立ち向かわなくたって、明日は来る。例えそれが面白みのない明日だったとしても、構うものか。
 
気づけば、電話の電源が切れていた。
 真っ黒になった画面は、彼との接続を遮断した事を無表情に告げていた。
 そういえば、もう三日も充電していなかったから、電池切れを起こすのもそろそろだったはずだ。
「ま、いっか」
 このままでいい。だから、彼の助けなんて、借りなくたって。
「Dimly Dimly」
 つらい事に立ち向かう勇気など、あいにく持ち合わせていないのだ。
だから、私の世界はモノクロなのだ。
 通話のために起こしていた上半身を毛布の上へと投げ打つ。
 程よく肉付きされた肢体から力を抜くと、何気無く窓の方向へ視線を向ける。
 真っ白な空には、真っ黒な鳥の群れが踊っていた。

       ◇    ◇    ◇

 群れを成す鳥たちが、私の周りを駆け巡る。
 ばっさばっさとその翼を広げ、風を拾い、風を放って空を舞う。
 皆楽しそうに、空の旅を満喫していた。
「ハローハロー。一緒に飛ぼうじゃないか」
 真っ白な空と、真っ黒な鳥。
 皆没個性に無個性で、これほど居心地の良い集団などそうないのだろうな、と思案する。
 きっと、誰かと誰かが入れ替わったって、誰も気づきやしないのでしょう。
 皆が皆、ただの『鳥』なのだから。
「ええ、そうしましょう」
 頷いて、それから私は飛ぶ。
 上昇気流に乗って、果てのない地平線へと体躯を滑空させていく。
 空も、海も、大地も、何もかもがただの白と黒で出来ていた。ひどく味気ない光景だったが、私は安堵して胸を撫で下ろした。
 それはただのモノクロなのだから。何もないのだから。

       ◇    ◇    ◇

 自由に泳ぎまわるスイミーたちが、私の周囲をぐるりと囲んだ。
 円を描くように、ぐるぐる回りながら泳ぐのだ。
 しなやかに体躯を動かしながら、彼らは言う。
「ハローハロー。一緒に泳ごうじゃないか」
 真っ黒な海と、真っ黒な魚。
 個々が集まり集団になって、もう誰が誰だか解からない。
 黒いことが特徴だったスイミーも、もう判別がつかない。
 でも、それでいいのだと思う。だって、あの童話は不公平だもの。スイミーだけが目立って、他の皆はエキストラ扱い。そんなの酷いと思わないだろうか。
 全員、ただの『魚』なのだから。
 頷いて、それから私は泳ぐ。
 海流に乗って、真っ暗な深海を巨大な魚の一部となって進んでいく。
 妙にヒンヤリした感触が全身をなぞって、周囲を見渡せばどこもかしこも真っ黒だった。
 それはただのモノクロなのだから。何もないのだから。

「ここはどこかしら」
 何となく、スイミーたちに合わせて泳いでいたら、見知らぬ場所へと辿り着いていた。
 波打ち際で、陸に上がったばかりの人魚姫のように呆然と陸への玄関口を眺める。
 白い太陽が送る熱が全身を炙る中、これまた白色をしたビーチを陸地方面へと歩いていく。
 海の中とは違い、どこもかしこも真っ白であった。
 押し寄せる細波だけが黒く濁っていて、波から逃れるようにビーチを抜けた。
 鳥の声も聞こえない、物静かな場所だった。
 どこか、南洋諸島にでも来てしまったのかもしれない。
 少なくとも私が知っているような景色ではなくて、雑誌の一ページでしか見た事のないような南国の島の光景だった。
「誰か、いないの……?」
 あまりに白すぎるこの場所で、取り残されたように独り突っ立っていると、不安定な気持ちになる。
 もう世界には自分しか存在しないのか、と思わせるような、脆く歪んだ不安。
「そうだ。携帯電話」制服のスカートの、ポケットに手を突っ込んで無機質で長方形の物体を捜し求めるが、それらしきものは入っていなかった。
 よく考えれば、充電は切れたままだし、未だに部屋に放置されているのだろう。
「あ、れ……?」改めて周囲を見渡す。
 見渡す限りの白い背景に、落書きのような黒い木が二本。
 枯れかけで、今にも折れそうな細枝が涙を誘うその木々は、それでも恋人のように寄り添い合って、幸せそうであった。
「って、そうじゃなくて!」
 そう。私はあの部屋からどうやってここまで来たんだっけ?
 飛んできたり、泳いできたり……。って、私は人間だ。羽もないし、えらもない。
というよりそもそも、世界から色が抜け落ちている今この状態からしておかしくはないだろうか。
「……ま、いっか」いまさら細かい事を気にする必要もないだろう。
 すると、身体が羽のように軽くなって、軽快に木々の隙間を潜り抜けた。
 地面はまっさらな白から墨色に移り変わって、その感触も柔らかく足を絡めとるような砂から、固くどっしりしたコンクリートのそれへと変貌していく。
 平坦な道を道なりに進んだ。
 二流の漫画家が描いたように背景は真っ白で、黒い地面が果てまで続く。
「遠近法もいよいよ怪しくなってきたわ」
 ぶつぶつ小言を呟きながらも、とりあえず歩く。何のために歩くのか分からないけど、歩かなければどうしようもないのだから仕方があるまい。
 夕暮れが近づいたって、空の色がどんな風に変化するのか分からないから時間感覚が掴めない。
 けれど、どうせ夜になれば空は真っ黒に染まるのだから、徐々に暗化していくのだろう、と一応の仮説を立てておく。
 モノトーンな世界の事だ。昼と夜の差なんて『白』か『黒』でしか表せないだろう。
 真っ黒な地面を見下ろす。
 ここに蟻が何匹居たって、私はきっと気づかないだろう。
 何匹踏み潰したって、罪悪感を感じる事も許されない。無個性すぎる世界も大概なのかもしれないな、と苦笑を洩らす。
 ふと顔を上げれば、そこは大都会の真ん中だった。
「……?」
 私が立つのは大通りのスクランブル交差点の真ん中だ。
 視界を埋め尽くすほどの人ごみが、四方八方からやって来ては向かい岸へと渡っていく。
 皆一様に黒かった。真っ黒で、真っ暗で、ドス黒くて、悪寒がした。
 人の波に流されないようにしながら、周囲の様子を眺めやった。
 スクランブルを超えた先にもちゃんと道があるようで、道の両脇には巨大な建造物が軒を連ねている。
 真っ白なその建物たちは、まるで白像のように堂々と佇んでいて、見る者を圧倒させる。
 私はスクランブルを超えて、当てもなく人の流れの為すままに、道の続くままに前進を繰り返した。
 途中、真っ白なショーウィンドウに写った私の姿は虚空のように白かった。
 そして弧を描くように浮かんだ黒い口が、道化師のようで不気味だった。違う。あれは私の顔ではない。
 私の顔は、ちょっと地味目だけど、一応整っていて、黒い髪は長くて……。
「……それで」それで。それで何だっけ。
 私の顔が思い出せないのは何故?
 それどころか、家族の顔も思い出せなくて、知り合いの顔も思い出せなくて、だって皆真っ黒なんだもの。
 ショーウィンドウに蜘蛛の巣みたいに亀裂が生まれた。
 蜘蛛の巣は、私の拳とガラスの接触部から生まれて、そこから私の顔を写していた部分まで伸びていた。
 黒い手の指の頭につーっと黒い血が滴っている。
「痛い……」
 切れた部分を舐めようと手を口元に持っていった時、異変に気づいた。
 通りの人々が、誰一人動いていない。それどころか……。
 からくり人形のようにゆっくりと振り返ると、全員が空洞のような目でこちらを見ていた。
 ただ沈黙して、じーっと、こちらを眺めている。
「オ前ハ、誰ダ」
 私は、誰だろう。
 堪らず、駆け出した。道を塞ぐように立っていた人たちを押しのけ、掻き分け、人波で見えない地平線を目指した。
 影の間をすり抜けるたびに、無表情に私をジロリと睨むその目が怖くて、下を向いて走った。
 誰も私を止めようとはせず、そして追いかけても来なかった。
 黒で染まった視界が晴れ、大通りに来る前と同じ上は白、下は黒という景色へと到達する。
「一体全体、この世界は何なのよ」立ち止まった靴底から、白い埃が舞った。
 白と黒しかないこの世界で、私と埃は全く同一の存在であると言えた。
 目に映るものを色素と呼ぶのなら、私と埃は全く同じ『白』という存在に過ぎなくて、風に揺蕩う毛髪は地面と同じ『黒』でしかなくて。
 そう意識した瞬間、視界が揺らいだ。地面がシーソーのように傾いて、重力さえも消え去って、身体は宙を舞い、心像は散った。
 落ちる、堕ちる、墜ちる。
 坂のようなアスファルトを転がり落ちて、そうして再び平衡感覚を取り戻したのは、一つ佇む車道用信号機の手前での事だった。
 私は横たわった身体の節々に走る痛みに眉を顰めながらも、その信号機の佇まいを見上げた。
 色がない世界だ。信号機は最早信号機としての役割を担っていなかった。
 三つのランプが擦り切れたような白と黒がチカチカと点滅を繰り返し、まるで急げと言わんばかりにその点滅の速度を速めていく。
「はいはい」
 交差点も何もないが、私はふらつく身体で急いで立ち上がると、信号機の下を潜った。
 振り向けば、信号機の光はもう見えない。
 信号機の裏側が、やけに寂しく感じられた。
 私は「でも、振り返らなかったら、それはないものと一緒だよね」と呟くと、再度正面を向いた。
 そこには、先ほどの信号機と全く同じ形状の信号機が突っ立っていた。
 その巨大な出立ちに何か差異があるかと言えば、ランプが黒く光っている。
 それはもう、何もかもを上書きして飲み干してしまいそうな、夜の地平線にも似た黒い点灯。
 その黒い光が、一番右側のランプから照ってくるので、反射的に「これは赤信号なんだ」と思案した。
 ふむ、それなら渡る訳にも行かないよね……、と面倒臭げに息を吐いた。
 黒信号が白信号に切り替わるまで横断待ちしていても良いけど、それも何だか煩わしいし、別の方向へ行こうと考え、左方を向いた。
 すると、先ほどまでは微塵も気づかなかったのだが、そこにも巨躯を据えた信号機が鎮座しているのである。
 そして先ほどの信号機同様、三つ子のランプのうち一番右にあるランプが黒く光っている。
 それを視認した瞬間、弾かれたように回れ右をするとやはりと言うべきか、そこにも信号機が据え付けられているのだ。
 黒い光に目が眩み、私は顔を背ける。背けた先にもやはり信号機があって……。
 いつの間にか、私は信号機に囲まれていた。
 寸分の隙間もないほどに埋め尽くされた信号機の群れは、煌々と瞬くネオンで私を照らした。
 どこを向いたって、黒ばかり。
上も、下も……。

       ◇    ◇    ◇

 幼い頃から本を読む事が大好きだった。
 本の中に広がる、色鮮やかな世界が大好きで、本はまるで地球儀のようだった。どこにだって連れて行ってくれる。
 私は自室の本棚の整理をしていた。
 お世辞にも大きいとは言えないこの部屋では、置ける収納のスペースも限られている。
 当然その制約は本にまで及び、私は頻繁に本の取捨選択のやりくりをしていた。
 開きっぱなしの窓から夕暮れが差し込んで、部屋は薄黒色に染まっている。
 本棚の一番上の段の端っこから、小さな本が埃を纏って落ちてきた。
 床に転がったそれを拾い上げ、表紙を眺める。
 それは、私が昔大好きだった本だった。毎日読んでいたのに、今では内容すらあやふやだ。
 ページを捲ると、そこには白と黒の印字の世界が溢れていた。
 世界の何もかもが変わっても、色が抜け落ちても、それでも本だけは、例え色褪せても何一つ変わる事はなかった。

       ◇    ◇    ◇

 はっとして目を見開いた。
夢でも見ていたのだろうか。
 目の前の本棚も、活字の世界ももうそこにはなくて、一斉に白を照らした信号機たちが、滑るように移動して道を作っていた。
 信号機のアーチを潜り抜ければ、見覚えのあるパノラマの景色が溢れんばかりに広がっていた。
 人通りこそ少ないが、そのくらいがこの町には丁度良いくらいだ。
 白い電柱の傍を通り過ぎ、黒い街路樹の先へと歩みを進めれば、幼少の頃よく一人で遊んでいた公園があった。
 そしてそこの入り口には彼がいた。
例に漏れず真っ黒に染まった彼は、私には目もくれず、目の前を通り過ぎようとしていた。
「待って!」堪らず、呼びかけた。
「?」彼はこちらを振り向いて、首を傾げた。そしてそのまま元の方向へ向き直り、何事もなかったかのように立ち去ろうとする。
「ちょっと……!」
 彼のこちらに対するあまりに無関心な態度に内心苛立ちを覚えた。
しかしよく考えれば、最近こいつに冷たくし過ぎたかもしれない。
これはもしかして、仕返しなのか。
「久しぶりね。話したい事がたくさんあるの。とりあえず、一緒に行きましょう」
 私は精一杯の笑みを浮かべて言った。仕方ないのでこちらから歩み寄ろう。
 これは宥和政策、飽くまで宥和政策……。
「…………」
 しかし歴史は繰り返すものだと言わんばかりに、私の宥和政策も失敗に終わったようだった。
 彼は本当に訳が分からないという風にかぶりを振った。
「ねぇ、どうしたの……?」
 どこか調子でも悪いのだろうか。それも、私の滅多に見られない笑みを前にしてこの態度である。
 普段ならあり得ない。これはよほどの事態だ。
「キミは……」
 彼は、そう言ってこちらをまじまじと眺めた。
 まるで、怪しい、見知らぬ人を見るかのように。
 空虚な黒い瞳に映った、これまた空虚な私の顔が酷く歪んで見えた。
「……誰だい?」
 頭の中が、白に染まった。
「……よ」
「え?」
「もういいよ! 最初から解っていたから!」
 嘘だ。何も解からないのに、何も知らないのに。
「え、あ、ちょっと……」
「さよなら!」
 目尻を拭って、彼の横を通り過ぎた。
 公園の入り口に駆けて、後ろは振り返らない。
 下り坂の続く、園内を下り続けて、砂場で遊ぶ子供達を尻目に、奥へ奥へと足を伸ばした。
 遊具の群れの中を駆け抜けて、やがて木々が生い茂る空間へ到達する。いつもなら色彩豊かな紅葉が出迎えてくれるのに、今では白と黒の濃淡なだけの空間と化していた。
 この公園は学校の校庭ほどの広さを誇るため、数多くの遊具を置いても、それでも敷地が余ってしまう。
なので、余った箇所は自然に限りなく近い状態で保存し、子供達の数少ない自然な遊び場として活用しているのである。
 近年は都市開発が進み、公園ですらその数を減らしてしまった。また、例え付近に森や川があっても、危険だからという理由で遊ばせて貰えないどころか、立ち入り禁止指定までする始末である。
 そうやって子供の遊び場を奪って置きながら、「子供が外で遊ばないのはテレビゲームのせいである!」などと紛糾するのだから非常に性質が悪い。
 そんな事を思いながらも砂利道を通り抜け、木々の隙間を潜り抜け、やがて公園の最深部までやって来た。
 この辺りは本格的に草木が暴れまわっているため、来る人も少ない。一応、自然空間の入り口付近は整備してあって、道もあるしベンチも設置されている。
 それに、公務員が定期的に訪れては伸びすぎた草木の手入れを行っているので、とても動きやすいし、散歩にも適している。
 しかし、それも自然空間の中間地点くらいまでの話で、その先には野放しになった木々が縦横無尽に枝を伸ばし、草花が所狭しと生えているのだ。
 ここまで訪れるのは、それこそ冒険好きな一部の男の子くらいだろう。
 私はと言うと、冒険好きではなかったものの、小学生の頃からよくここまで来ていた。
 その理由が、この奥にある訳なのだが、如何せん久方ぶりの訪問なので、どこにあるのか特定が難しい……。
 北欧の森林地帯なのではないかと思うほど密度の濃い森の中、記憶を頼りにその場所を、と言うよりその目印を探し回る。
 地面は盛り上がっていたり、凹んでいたりと安定しないし、草は移動を邪魔するし、枝は視界を遮ってしまう。
 そんな悪環境の中、ついに私は目印を探し当てる事に成功した。
 そして両手で左右に押しのけたセイタカアワダチ草の先には、辺りの樹木の中でも一際大きい巨木が二本仁王立ちしていた。
 この二つの大木の隙間を潜り抜ければ――葉っぱなどが大量に服に付着するのが困りものだが――教室の大きさより一回りほど小さい空間がそこにあった。
 その空間は、周りを小さな丘陵と樹木に囲まれているため、外からは一切目視できないようになっている。
 また、木々がほぼ隙間なく埋め尽くしているので、この空間へのゲートは二本の大樹の隙間だけであり、そこも草がやたらに生い茂っているので、知らずに掻き分ける者など皆無だ。
 ゆえに、この場所を知る者は非常に数少ない。だからか、私がこの場所を訪れる時、ここは何時だって無人だった。
 そして、たった一つだけ設置されている古びたブランコは、風もないのにゆらり揺れているのだ。
 ずっと昔からあって、だけど何故か錆付かないこのブランコに腰掛けた。ギシリと軋んだ音を立てて、それでもブランコは私を受け止める。
 幼少の頃から、何か嫌な事や悲しい事があると、決まってここまで逃げてきた。
 この排他的で対外的な空間にいると、不思議と何もかもを忘れられる事が出来るのだ。
 地面を力強く蹴り付けると、身体が後方へ跳んだ。
 私を乗せたブランコは、重力に逆らって上っていき、重力に従って下っていった。
 半円を描きながら廻るブランコに腰掛けて、茫然とどこかを見ていた。視線は宙を彷徨っていた。
「私って、一人ぼっちになったんだ」
 友達と呼べるほど親しい人も居らず、家族も居ない。
 唯一、私に話しかけてくれた彼はもう私を見ていなくて、そして私は誰も居ない場所で独りブランコを揺らしている。
 孤独には慣れたつもりだったのだが、一度他者との関わりを持ってしまった今、それは苦痛でしかなかった。
「誰でも良い、私の傍に居てよ!」
 勢いに乗ったブランコが、ちょうど前面に出たタイミングを見計らって、飛び降りた。数メートル先へ跳んで、地面から枯葉にヒビが入る心地良い音が鳴った。
 誰も居ないはずの場所で、誰に言うでもなく叫んだ言葉には、私の予想とは裏腹に返事があった。
「誰でも良いってわけじゃ、ないだろ」
 よく見知った、しかし私の事を忘れてしまったその男が、大樹の隙間から現れた。黒いその手に小さな紙袋を引っ提げて。
「……何か用?」
 来てくれた嬉しさより先に、警戒心が出た。
「ごめん。鼎さんがあんまり変わっているものだから、ちょっとからかおうとしたら、鼎さん、逃げちゃったから……」
 後頭部を掻きながら、彼は困ったように笑った。
「本当、悪かったって。第一、キミをストーカーしていた俺が、キミを忘れるわけないでしょ」
 何とも気持ち悪い事を平然と言ってのけるこの男、紗枝好 弘一(さえよし こういち)は確かにかつて私のストーカーであった。
 それも、ただのストーカーではない。私の事を密室に監禁をした前科有りである。正直言って関わってはいけない人種。
「いいわよ……別に。アンタに忘れられていようと、いまいと、どっちでも構わないし」と言葉では言っておくものの、人間関係の希薄な私にとって、コイツは唯一と言ってもいい、腹を割って話せる人物だった。
 それに、ストーカーで犯罪者で、何考えているのか分からない気持ちの悪い彼ではあるが、それなりに状況を見通す力があるし、いざと言う時には頼りにしてやってもいい程度には使える。
それだけに、彼が私の事を「知らない」と言った時は、本当にショックだったのは事実だ。それゆえ、ちょっとした気恥ずかしさがあって、目を逸らした。
「まぁ、それじゃ、お詫びの印としてこれあげるからさ」
 紗枝好は枯葉や枯れ枝を踏みながら歩み寄ってきて、茶色い手提げの紙袋を私の胸元に押し付けた。
「……何これ」
 押し付けられた以上、受け取ったが、中身が気になる。ふざけたものだったらぶん投げてやろうと思案しながら、中身を問うた。
「なんて事はない、ただのクレヨンさ」
「要らない」即座に言いながら、紙袋を返そうと掲げた。
「いいや、要る。絶対必要になるから」
「なん……」
「それと、今日は夕方から雨の予報だから、早く帰るといいよ」
 紗枝好はそれだけ言うと、「じゃあ、また」と言い残して足早に大樹の隙間へと潜って行ってしまった。
 どう考えても不必要なクレヨンの入った袋を持ちながら、私は深いため息を吐いた。勿体無いし、持って帰ってしまってもいいだろう。
 それに、クレヨンの色が、どう変化しているのかも少しだけ気になった。
「私も、帰ろっかな」
 この場所で、誰かと出会うのは初めてだった。それでもこの場所はいつものように、少しだけ、元気をくれたのだった。

       ◇    ◇    ◇


 夕焼け色を表現しているのだろうか、白い空は徐々にモザイク色に変化していっていた。
 やがて黒の割合が増えていって、最終的に真っ黒になるのだろう。そしてそれを、夜と呼ぶ。
 自宅へ到着した時には既に、空はだいぶ黒っぽくなっていた。しかしこれは夜が近づいている事だけが原因ではない。
 雨雲が、空を覆っているのだ。これから一雨降りそうだった。降る前に帰宅できて良かった、と安堵の息を吐く。
 玄関の扉の鍵穴に鍵を差込み、軽く捻る。軽快な音とともに、施錠が解除された。
 玄関に入り、靴を脱ぐ。乱雑に脱ぐと、お客さんが来た時に品格を問われかねないので丁寧に脱いで、きっちり揃えて置いておく。
 尤も、客などかれこれ数年で紗枝好しか訪れていない上に、訪問内容が拉致なのである。はっきり言って要らぬ心配だが、しかしながら日頃からの生活態度が云々。
「ただいま」
 誰もいない家に向かって挨拶するのも、いつもの事だ。いつか、誰かが出迎ええくれる日が来ると願って、毎日欠かさず挨拶をしているのだ。
しかし、空虚なこの家には誰も居ない。一階など、リビングや洗面所、お風呂以外は放置されている。
 自室は二階にあるので、玄関の真向かいにある階段を一気に駆け上がる。こうした方が疲労が少ないのは、確かな経験論である。
 開きっぱなしの扉を潜り抜けると、相変わらず真っ白な私の部屋がそこにあった。
 なに一つ置かれていない学習机の上に紙袋を放り投げると、窓際の桟に置いてあった携帯電話を手に取った。携帯電話には充電コードが延びていて、それを辿れば学習机へと行き着く。
 それは手に取ると同時にぶぶぶっと震えて、過去に着信があった事を伝えた。
「誰からだろう……ってあいつしか居ないよね」さっき話したし、別に折り返さなくてもいいだろう。
 面倒くさいのも手伝って、そう結論付けると携帯電話はそのまま窓の桟に戻し、学習机の上へと視線を向けた。
 ほかにやる事もないし、暇つぶし程度に見ておいてやるか、と思い、その紙袋を手に取る。
 中に手を突っ込んで探ると、長方形の硬いものに指先が当たった。
 それを引っ張りあげると、案の定ただのクレヨンだった。
 しかも、パッケージイラストもただの白黒でしかない。
 期待はずれだ。今度あいつと会ったら、問答無用で突っ返してやる。
 そう胸に誓い、クレヨンの箱を手提げ鞄の中へと放り込んだ。

 まだ手を洗っていない事に気がついたので、部屋を出て階段を下りた。
 洗面所は一階にあるので、移動がやや面倒だ。ちなみにトイレは一階と二階両方にあるので、その時その時で使い分けている。
 洗面所の電気を点け、蛇口を捻った。やけに黒ずんだ水が排出された。
「水は黒いんだっけ……」それは海や川だけの話だと思っていたが、どうやら水自体が「黒」に分類されるようだった。
 正直、白でいいじゃないかと思うが、私に決定権がある訳ではないので仕方ない。
 闇のような黒い水は、私を誘って笑っていた。
 眉を顰めながらも手を洗い終え、洗面所を後にする。そろそろ今日の夕飯の支度をしなくては、と思い立ち、キッチンへと足を向ける。
 独り暮らしが始まってから、基本的に三食は自炊するようにしていた。料理自体は楽しいが、時々面倒だと感じる事もある。
 それに、誰かに振舞った事もないので、自分の料理の腕がどれほどのものかも分からない。
 ひとまず食材の確認をしようと冷蔵庫を開ける。色は、最初から白色なので違和感はなかった。
 中を覗くと、そこには麦茶と卵しか入っていない。これは……大飢饉状態だ。
「そういえば、最後に買出しに行ったの先週だっけ……」そりゃ無くなるわね、と一人で納得する。
 しかし今は納得している場合ではない。今日は歩き回ったせいでお腹も空いた。とても夕食を抜きにする余裕はない。
 近所のスーパーまでは徒歩五分。これはもう、急いで行ってくるしかないだろう。
 とりあえず、バッグと財布を取りに二階へ行かなければならない。駆け足で廊下へ飛び出る。階段を登る時、玄関の扉の向こうからは雨音がしていた。

 鞄を掴み取り、財布をポケットに突っ込んだ。念のため、携帯電話も持っていこうと手をかけると、突然それは震えだした。
「何よ、こんな時に」画面に表示された「紗枝好弘一」の文字に舌打ちをしつつ、受信ボタンを押した。
「もしもし」
「……もしもし。あ、鼎さん?」
「私の携帯電話にかけてるんだから当たり前でしょ」
「そんな事はどうでもよくて、雨が降ってきたからさ」
「だから、何?」携帯電話は耳元に押さえつけときながらも、部屋を出て慎重に階段を降り始めた。
「危険だから、外出ないほうがいいよって言おうと思って」
「……あんた、エスパー?」あんまりにもタイミングが良すぎやしないか?
「違うって。強いて言うなら俺は、紗枝好弘一、ストーカーさ」
「……カッコつけたってカッコ悪いから」
「うん、俺っていつもカッコ悪いよなあぁ、ははは」
「で、話はそれだけ? なら切るけど」
 玄関に座って、靴を履いた。踵までしっかり入れるために、つま先で二、三回床をトントンと蹴った。
 そして、玄関の扉の施錠を解くと、開いた。瞬間雨が空気を切り裂く音が耳に響いた。
「おいおい、外にでるつもりだろ。止めとけよ」
「いやよ」
 黒い雨を遮るように、白い花を咲かせた。
 視界は、雨に苛まされて絶望的に黒かった。
 雨の弾丸は傘を強かに打って已まない。
「俺が何で、全部知っているのか教えてやろうか」
「……」答えなかった。すると紗枝好はそれを肯定と捉えたのだろう。
「全ての答えは輪廻だ。つまり、結末は一緒なのさ」と言った。
「どういう事?」
「どんな物事にも、円環というものがある。そして、終着点もね」
「円環なのに?」
「終着点が、全ての始まりさ」
「変なの」
「変だよ」
「何が?」
「キミと、キミを取り巻く世界がね」彼は愉快気に笑った。
「それって。あんたも含まれてるんじゃない?」私も少しだけ、笑った。
「……まぁね」

 会話の最中も歩く事は止めなかった。雨に濡れるのは嫌だったので、早足で歩いた。
 そして住宅地を抜け、ついに大通りまでやって来たのだが、遠方で、黒い雨を切り裂くように何かが白く光った気がした。

「キミは、色を失ったままで、それでいいのかい?」
「良いも悪いもないのよ」
「理屈なんてどうでもいい。俺はキミに聞いてるんだよ」
「どうしたってこうしたって、やたらに干渉したがるのが悪い癖ね。貴方には関係ないでしょ」
「そうやって逃げるのかい?」
「そうね。痛みからは逃げたいもの」
「痛みから逃げたって、悲しみから逃れられるわけじゃない。本当に、俺の中からキミの姿も消えてしまうよ」
「得体の知れないストーカーから忘れられたって構わない」
「そういう素直じゃないところ、好きじゃないな」
「……そう」
「うん」
 不意に後ろから、誰かが私を押した。
 身体は宙を舞い、歩道から車道へと転がった。傘はどこかへ飛んでいって、鞄は中身を吐き出して転がった。
「ちょっと……!」文句の一つでも言おうとしたが、影がどこにいるのかも分からなかった。
 雨の闇に紛れた彼らは、白い目だけを残して、その身体を雨に隠されている。
 それは私も一緒で、きっとわざと押したのではなく、姿が見えなくて偶然押してしまったのだろう。
 ただ、責任を負いたくないとばかりに、無関係を装っているのが無性に腹立たしかった。

       ◇    ◇    ◇

 遠い記憶の片隅で、女の声が聞こえた。
 遠くて、とても近かった。とても煩わしくて、耳障りな金切り声。
「鼎さんってさー、何かおかしくない?」
「分かるー、他の人と違うって言うか」
 何よ……。
「何か、キャラ作ってますよって感じ?」
「でも良い子ぶってるよね。ウケル」
 私はただ、私でいるだけじゃない……。
「正直さ、アタシああいうの嫌いなんだよね。ウザいっつーか」
「消えてくんないかね。割とマジで」

「あれ以来、私は自分の感情を隠しました」
「大多数のうちの一人で居続けました」
「それはとても居心地がよくて」
「でも、とても悲しくて」
「私の世界は、モノクロに色褪せてしまいました」

 自分が自分である世界は、色んな色が渦巻いていて、少しでも珍しい色があると、皆はそれを攻撃する。
ならいっそ、白と黒しかない単純な世界なら、もう傷つく事もないから。
だから、私はモノクロになったのに。

「君は、どうしたい?」
「私は……」
「どうされたい?」
「……」
「……助けて」
 一瞬の静寂。目を瞑った。
「分かった」その言葉に、目を見開いた。

「あ……」

 その瞬間、モノクロの世界が罅割れた。
 同時に、そこら中に散らばっていたクレヨンたちが一斉に発光し始め、単色だった世界を一斉に塗り始める。
 白と黒の世界をかき消すように、真っ黒な紙を消しゴムで擦って行くように、視界から黒が消えていく。
 その奥には、私の、彩られた世界が確かに広がっていた。
 暖かい赤。
 冷たい青。
 優しい緑。
 刺激的な黄。
 ときめく桃に、落ち着く紫。
 いろんな、いろんな、何一つかけがえのない色が、私の視界を、ただただ染めていく。
 それは、とても素敵な光景。乾いた世界に潤いが齎された様な、そんな感覚。
 そして、私は気づいた。私の横から突っ込んでくるトラックに。
 真っ黒な世界で、見えなかったトラックが、私を。
 咄嗟に、目を瞑った。

 ドンッ。

 鈍い音が聞こえ、しかし私は未だ両足で地面に立っていた。
 とっくに襲い掛かって来ているはずの衝撃は、いつまで経っても来なかった。
 及び腰で目を開く。
 そこに、倒れていたのは。
 
「どうして……」
「言ったでしょ、助けるって」

 霞がかった瞳で微笑む彼は、とても暖かい色をしていた。
 暖かい、暖かいその色は、地面を染め上げて広がっていき、私の足元すらも染め上げていく。
 辺りは騒然となっていた。遠くから、救急車のサイレンが聞こえて、色を持った人たちが駆け寄ってくる。
 口々に何かを叫んでいるようだ。豪く耳障りに感じた。
「キミだけの色を、大切に」立ち竦んだ私を見上げて、彼は言った。
 最期の言葉は、それはとても暖かい、暖かい心の色をしていた。

 彩られた世界で、私は歌う。
「Dimly Dimly」
 それは、貴方に捧ぐ歌。
 私の色は、きっと素敵な色だから。どんな色の中でも褪せない、特別な色だから。
 そう教えてくれたのは、大切な人だったんだ、と今になって思う。もう遅いのかも知れない。
 だけど。
「ありがとう……」心の奥底で、囁いた。もしかしたら、届くかななんて期待して。
 貴方の色も、とても素敵な色だったから。
「とても、とても」
 冷たい雫が、頬を伝った。
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