スピードレーシング
ウェル

 その日は五月下旬だというのに、日差しがとても眩しかった。熱が差すように身体を貫き、火照った体躯は風に吹かれて熱を散らす。
 足元でカラカラと廻り続けるスケート靴は火花に隠れた。コンクリートで覆われた地面は滑りやすく、道を遮るものなど何一つない。
 人々は道の端で各々談笑を繰り返していた。その横を俺が駆け抜ける。
 加速に加速を繰り返し、早回しのビデオのように風景が写っては過ぎ去っていく。地平線は集中線をあてがわれたように遥か遠くに見えた。
 そして、後方から迸る熱線、轟音。後ろを振り返らなくても分かる。
 異形の化け物が――それこそゴジラ級の怪物が――俺を追いかける際に、勢い余って建造物をぶち壊しているのだ。
 首筋にじんわりと生温かい汗が吹き出るのを感じながらも、スケート靴で地面を思い切り蹴った。追いつかれるわけにはいかない。
 大体どうしてこんな事になっているのか。
 当事者である俺はぼんやりとそれを理解していながらも、全く把握はしていなかった。
 ただ、俺は怪物から逃げていた。
 怪物は俺を追いかけていた。
 この二つの事実だけが全てであり、そして現実であった。あの怪物には節操というものがないらしい。貪欲に俺を求めている。
 それは、愛情だとか執着だとか、そんな崇高なものではなく。
 ただ、自己を満足させるためだけに、歯止めも理性もかなぐり捨てて、俺を追うのだ。
 街路樹が彩るメインストリートを俺が火花を散らしながら滑り抜ける。
 この街路樹も、人々も、巻き添えになるのかと思うと心が痛むが、それを気にしている暇はない。一瞬でも気を緩めれば、引っこ抜かれる樹の如く吹っ飛んでしまう。
 どうやらやつは悪気があって俺を追いかけている訳ではないらしい。
 俺を取って食べてしまおうだとか、八つ裂きにしてしまおうだとか、そういうものではないのだ。
 そう、やつは一重に俺の『速さ』を求めている。
 それも、俺のスケート靴が欲しい訳じゃない。
 俺と同じコースを、同じかそれ以上のスピードで駆け抜ける事がやつの目的。
 だから、俺がどんな可笑しな道を行こうと、どんなにスピードを上げようと、必ず背後についてくる。
 止まってしまえば飲み込まれる。
 しかし、加速したところで、道を変えたところで、やつを振り払う事は叶わない。
 そして、加速する度にガタが来るのは俺のほうなのだ。
 慣れない道を選ぶ度に転倒してしまいそうになるのも、壁に接触してかすり傷を負うのも、俺なのだ。
 メインストリートは、急な下り坂に差し掛かっていた。
 眼下に見えるレンガの建造物の軒並みは壮観だし、スピードもかつてないほど乗ってくるが、気分は露ほどもノらない。
 過度に廻るローラーがいつ外れてもおかしくはないのだが、それでもスピードは増し続けている。
 風が全身をしたたかに打ち、髪の毛は後方へと流れていく。
 下り坂は果たしてどこまで続くのだろう。
 もし、このまま下り続けて、終わりが無かったら。
 きっと身体が転がって、宙を舞って、あの怪物に図らずとも体当たりされて死んでしまうのだろう。
 大体終わりは来るのだろうか。
死ぬまでこうして走っていろと言うのか?
 俺はただ逃げ出したいだけなのに、何を勘違いしたのかあの野郎はずっと追いかけてくるのだ。
 ジェットエンジンのような摩擦音を擦らして、車輪は回り続ける。暴風の日の水車のように、節操なく、止め処なく、歯止めなく、限界を知らず。
 突風を背中に感じた。やつが俺を追いかける際に生じる風だ。向かい風を打ち消すように、俺の味方をしてくれる。
 疾く、走って、走馬灯のように景色は流れていく。
 下り坂はどこまでも続く。地平線にみえたのは、サファイアのような青の煌き。とりあえず、あそこを目指してみよう。
 通る端からコンクリートが熱で溶け、二本の線になるようだった。それは、例えるならば俺の生きた証。
 下り坂が続き、加速していくと、幾分余裕が出来たように感じて後方を振り返る。
 影の姿は大きくなっていた。やつは、笑っていた。笑って笑って、楽しそうに笑って、スピードレーシングを満喫していやがった。
「クソ食らえってんだ……!」
 さらに地を蹴り、加速する。目が乾いて、瞬きすらままならない。
 恐ろしいほどに、メインストリートは下っていく。今までが山の上だったのか、と思えるほどに、坂は延々と続く。
 思えば昔から、会話というものが苦手だった。
 意思の疎通が面倒だと感じた。
 拒否する行為すら疎ましかった。
 自分の居場所はどこだろう。考えて考えて、そして思い立った。
 俺の走りは決して綺麗じゃないし、周りはとても上手に走れるけれど、それだけが全てじゃないはずだ。
 周りが自分より上手なのならば、俺は速さで勝負しよう。誰も着いて来れなくなるくらい、加速して、加速して、加速して、速さを武器にしよう。
 俺だけの武器だった。相変わらず歪な走りだったし、がむしゃらに速さを求めるようになってからは、ますますフォームが崩れ、無様になって、それでも誰よりも速かった。
 周りは俺を見ては、苦笑いした。「何だそれは」と口々に言ったが、それでも新しいタイプの走りを確かに認めたようだった。
 技術はともかく、スピードに関して言えば、俺は言葉の通り独走状態だった。加速に加速を繰り返し、誰かに抜かされる事さえなくなった。
 最早それだけがアイデンティティであり、不可侵で、絶対に守らなければならない座のように感じたのだ。
 実際、俺はその速さを手に入れるために、他の全てを犠牲にしたのだから。
 美しい滑りやトリッキーな動きはおろか、ターンやジャンプさえ碌に出来なかったが、代わりにスピードを高めるテクニックは只管身に着けた。
 それは俺しか知らない、俺だけの技だった。その技を使って、俺に追従するように速さを求め始めた周りの連中からの追随を振り切った。
――その俺が、何故!
 あの怪物に、得意のスピード勝負で追い詰められ、今にも転げ倒れてしまいそうだなんて、以前の俺なら信じられないだろう。
 やつは、どこでその速さを手に入れたのだろう。
 その姿を観察してみれば、どうやら俺の動きを真似ているようだった。
 怪物がレースをしながらも徐々に加速していくのは、俺の走りを一つずつマスターしていっているからなのだろうか。
 自分だけの武器だったはずのそれは、いつの間にか自分だけのものではなくなっている。
 その恐怖たるや、足元が狂い、後に印された熱線は左右に大きく歪んでいた。
 その熱線を踏み潰して、怪物は走る。怪物も例に漏れず、スケート靴を履いていた。
 そして、その体躯の割に俺よりも余程器用に走るのである。
 速さの為に総てを犠牲にする技を盗んでいるため、走りにも徐々に粗さが目立ち始めたが、それでも俺よりは遥かにマシだった。
 俺は全てを奪われたようで、悔しくなった。

 いよいよ眼下に望むオーシャンブルーの姿は視界いっぱいに広がるくらいに大きくなっていた。
 メインストリートは気がつけば港町を走っていて、どうやら終着点は近いようだ。
 背後から迫る影は少しずつだが大きくなってきていた。
 追いつかれるのも時間の問題かも知れない。
 せめて、この坂だけは下りきろうと思い、スケート靴に力を込めた。
 このローラーは、小さいくせによく回るものだ。
 ここまで加速するものなのか。ハッキリ言って感心したが、かと言って嬉しくも何ともない。
 俺は競争がしたいわけじゃない。誰かに追いかけられているこの状況で、一体何を楽しめと言うのだろう。
 風の音、ローラーの音、背後の音、全部が全部耳障りで、甲高くて、耳を塞いでしまいたくなる。
 坂の終わりがいよいよ迫っていた。
 百メートル向こうで、コンクリートの道は左右に直角に曲がっており、そのT字の先には砂浜が広がっていた。
 俺の技じゃ、あの直角は曲がりきれない。自嘲気に笑った。怪物ならば、あんな曲がり角、余裕なのだろうな。
 迫る終わりに、俺は目を瞑って、そして見開いた。
 隣を、怪物が走っていた。愉快気に笑って、俺の顔を見て微笑んでいる。
――な、何なんだよこいつは!
 動揺が波及したのか、ローラーは大きくブレて、俺は派手に転んだ。身体は宙を舞い、スケート靴は走る場所を失ってカラカラ空しく空回った。
 体躯は数メートルも吹き飛んで、砂浜を越えて浅瀬へと横滑りに突っ込んだ。
 幸いにも水底は浅くて、寝転がっている状態でも目や鼻に水が入る事はなかった。
 もうこれ以上走れない。歩く事さえままならないかも知れない。満身創痍だ。
 たぷん、と平和な音がして、俺は「全て終わったんだ」と呟いた。
 右手を、空へと伸ばす。健康的な太陽の日差しが、指の隙間から顔を照らす。
 ちゃぷん、と何かが浅瀬に入った音がして、俺は上半身を起こした。
 そこには、見知った友達が立っていた。ボロボロのスケーツ靴は左手に握られている。
 怪物だと思っていたが、どうやらアレは人間だったんだ。
「言いたい事、あるんだろ」
 それは、紛れもなく俺が避け続けた声だった。
 それなのに、どうしてこんなに優しい声なのだろう。
 俺は一体、何を恐れていたのだろう。
 あんなに怖かった怪物の姿は、今はこんなに身近に見えるんだ。
「もう、俺のことは追わないでくれ」
 喉を絞って、しゃがれた声が出た。
「……分かった」
 彼はそう言って、俺たちは互いにぎこちなく笑った。
 思えば、俺はこうして言葉をぶつける事もしなかったんだ。
 あの怪物の笑いは、心からの笑いだったのかも知れない。
 それに対し、共に走る事に楽しさを見出せなかった俺は、どこまでも孤独の中に生きるスケーターなのだ。
 ゆっくり、立ち上がった。不思議と、晴れ晴れとした気分だった。
 随分遠くまで来てしまった。疎かにしてしまったものもたくさんあるだろう。
 一つずつ噛み締めながら、帰るとしよう。
 砂浜を抜けて、四本の熱線の走った固いコンクリートの上に立つと、スケート靴で思い切り蹴りぬいた。

FIN
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