――――明くる日。
 太陽の光を受けて輝く砂漠の入り口で、私たちは並んで地平線を見渡していた。
 その地平線まで、大よそ遮蔽物は何もない。
 どこまで広がっているのかも分からなかった。
 そして、私たちは二人とも日差しから身を守るため、分厚いコートを身に纏っていた。
 正直に言えば、暑苦しいったらないけど、仕方がない。
 加えてゼルスは、大きめの麻袋を背負っている。その姿は、一風変わったサンタ・クローズのようだ。
「ギルンデルク城までだからな」
 本来ならここで別れる予定であったが、私は無理を言ってゼルスに着いていく事にした。
 王属騎士になるにはギルンデルク城を目指す必要があり、加えて七十Pの依頼もギルンデルク城付近にあるらしく、自ずと目的地はそこに決まる。
 私も、ギルンデルクの城下町で新生活をスタートさせようと思っていたところだったので、丁度良かった。
「よろしくお願いします」
 お辞儀しながら悪戯っぽく笑うと、ゼルスは面倒臭げにため息を吐いた。
 どうやらこういうのには慣れていないらしい。
「行くぞ」
 その掛け声を合図に、私たちは砂漠へ足を踏み入れた。

――着いていく理由は当然、目的地の一致というだけではない。
 ゼルスを奇襲して、上等そうな大剣と有り金を頂く。その金を基金に、ギルンデルク城で新しい生活をつくる。お金があれば、やり直す事だって出来る。
 一文無しでは結局生活に窮して盗賊に逆戻りだ。そんなのは、嫌だった。

 ゼルスに助けてもらったとは思わない。私はひとつの隠れ家を失った。結果から言えばそれだけだ。
 まぁ親方を殺してくれたのは憂さ晴らしには良かったけど、それでもゼルスに恩義なんて微塵も感じない。表では感謝しているふうに装っているが、それは利用したいから。ただそれだけだ。

 奇襲のタイミングは選ばなければならない。懸念すべき事項が幾つかあるのだ。
 まず、彼の仲間である。流石に親方を含む二十人の盗賊を一人で討伐する事など並大抵の人物では不可能だ。
 つまり、彼には共に討伐を行った仲間がいるはずなのだ。
 今はいない、というか姿を見た事さえないのだが、もしかするとどこかから監視しているのかも知れない。
 二つ目の懸念事項はこれである。私が盗賊である事を見透かされている場合。
 何の目的で騙されているフリをしているのかは謎だが、その場合奇襲の成功確率は大幅に下がる。
 本人も警戒している事だろうし、仲間も遠目から見張っているはずだ。
 三つ目は、ゼルス本人の強さだ。
 恐らく相当のものだと思われる。少なくとも、親方と同じかそれ以上だろう。
 彼の実力を知るまで、危ない行動は控えた方がいいかも知れない。
 慎重に彼の様子を見極め、あわよくば彼の技を解析して盗んでしまえばいい。
 そうすれば、私は今後どんな理不尽な仕打ちにも対抗できるだけの力を得る事が出来る。食物連鎖の上に位置すれば位置するほど生き残れる。この世界では、常に弱肉強食の理念が付きまとうのだ。

――――

「ゼルスさん! ツッ、ツノザウルスの集団ですよ! 逃げましょう?」

 旅を始めて数時間がした頃の事であった。
 私たちは黄土色の砂漠を延々北上し、ギルンデルク城を目指していた。
 砂に足を取られ、一歩がやたら重く感じられて、旅早々私はへとへとになってしまっていた。
 長年盗賊をしていたのに、このザマだ。普段歩いている固い土が今や懐かしく、恋しく思えた。
 一方ゼルスはどうかというと、こちらは余裕綽々と言った様子で、ちょっと癪に障る。
 対抗心に火がついて、彼の「ペース落とすか?」という魅力的な提案を蹴って、懸命にゼルスのペースに合わせているうちに血気盛んな肉食獣の群れとエンカウントしてしまったというわけだ。

 ツノザウルスはこの辺りでは特別珍しい魔物というわけではない。
 その名の通り頭部から一メートル近いツノを持っている大柄な四速歩行の肉食獣である。
 普段から十から二十匹で群れを成し、集団で小型の獣を狩って生きている。
 彼らは目標と定めた相手以外には基本的には無害で、特に人間を積極的に襲おうとはしない。
 しないはずなのにそれでもこうして、こちらに向かって突進して来ている様子はどう説明すればいいのだろう。
 不可解だが、現状そうなってしまっている以上何とかしなければならない。

 パニックになって、突進を避けようと横へ走り出しかけた私は波のような砂に足を取られ、横ばいに倒れてしまった。
 立ち上がろうにも、混乱する思考に、柔らかい砂が立ち上がるのを妨害する。
 ツノザウルスの砂を掻き蹴る音はすぐそこまで来ていた。

 倒れたまま立ち上がれない私の前に、すーっと黒い影が現れた。
 その影は言うまでもなくゼルスのもので、彼は背中に預けた銀の大剣を引き抜き、柄を両手で握ると姿勢をやや前方へ傾けた。大剣は力なく地面へ向いている。
 ようやく膝を突く姿勢まで持ち直した私は、愛剣を握ったまま静止するゼルスに甲高い声で叫んだ。
「む、無理ですよ! 勢いを味方につけたツノザウルスを真正面から打ち破ろうだなんて、不可能です!」
 それでもゼルスは微動だにしない。ツノザウルスの集団はもう間近に迫っているというのに。
「仕方ない……!」
 このままではゼルスと諸共あの世逝きになってしまう。数瞬後には二人ともツノザウルスのお腹の中だ。
 そうならないためにも、ツノザウルスの“弱点”を突かせてもらう。

 懐から取り出したのは煙玉である。盗賊時代からの愛用品だ。本来なら、あまり使いたくない代物だった。
 何故なら、ゼルスから見て一般人であるはずの私がそんな武器を持っているのは不自然極まりないからだ。
 せっかく盗賊の私を、ただの拉致被害者と勘違いしてくれているのに、ボロを出す真似はしたくなかった。
 だが、状況が状況である。私はそう割り切った。

 手のひらサイズのそれを、あまり狙いもつけずにツノザウルスに向かって思い切り放り投げる。
 煙玉が発動するのは衝撃を受けて玉が破れた時であって、砂の地面に投げたって発動しない。
 何か固いものにぶつけなければならない。その対象は、ツノザウルスの他になかった。
 運の良い事に煙玉は先陣をきっていたツノザウルスのツノの先端に当たったようで、勢いよく煙が噴出した。
 見通しのいい砂漠だというのに、白煙は辺りを完璧に覆い隠してくれる。
 そして、ツノザウルスは視界を塞がれる事に滅法弱いのだ。

 きっと今この瞬間にも多くのツノザウルスが動揺して進路を変えたり、もしくは横転している事だろう。
 これでしばらくは安全だ。そう思い、心に余裕が広がると身体の動きも着いてきてくれるようになる。
 素早く立ち上がると、いまいち状況が理解出来ていないらしいゼルスの腕を引っ張って、
 やはり走り慣れない砂の上を一目散に駆け回った。

――――

 日は落ち窪み、夜行性の動物が周囲を蠢いている気配がする。
 私たちは依然砂漠の真ん中にいた。
 よく考えれば、この国の多くは砂漠で覆われているので、突破するしない以前の問題だ。街以外のどこに行ったって、砂漠から抜け出る事はあり得ない。
 街や城以外のほぼ全域が砂漠という可能性も十分にあり得るのだから。
 偶然見つけた浅い岩の洞窟で、私たちは一夜を過ごす事にした。
 夕食は、この辺りに多く生息しているミドリトカゲという体長三十センチほどのトカゲだ。
 見た目はグロテスクでも、味は一級品である。もちろん焼く必要はあるが。
 幸い洞窟の内部には少し前まで人がいたらしく、多少の木材が残されていた。
 焚き火をするには十分な数だったが、問題は火である。
「ゼルスさん、火興しはできるんですか?」
 焚き火のベースを組み立てながらも、不安になって聞いてみた。
 どうやら、杞憂だったようだ。
「あぁ、問題ない。火打ち石を常備しているから」
 そう言って、麻袋の中から相当に使い込まれた石を二つ取り出した。それだけ長く旅を続けているのだろう。
 お金だってたくさん持っているし、必需品も欠かさず準備している。相当の場数を踏んでいそうだった。

 カチッ、カチッ、と石同士がぶつかる音がして、それから小さな灯が焚き木に灯った。
 少しずつ勢いを増していき、やがて煌々と瞬きはじめ、焚き火としては充分なまでに燃え始めた。。
 小さく音を立てながら燃える炎をぼんやり眺めて、うとうと眠りそうになる。
 今日は、随分歩いてきたから、疲れてしまった。
「どうした、眠いのか? 寝るんだったら食ってからにしとけよ」
 棒切れで串刺しにしたミドリトカゲを数匹、焚き火に突き立てながら、火を挟んで真向かいのゼルスが言う。
「明日も、相当歩く予定だからな」
 何でもないようにさらっと話すゼルスは、やはり只者ではなかった。
 見たところ、体力的を消耗している様子も見えない。
 もしも睡眠という概念がなくて、そして私というお荷物がいなかったら、彼はきっと夜通し歩き続けても大丈夫なのだろう。
 まさに底なしだった。
「大丈夫ですよ、子供じゃないんですから」
 強がって言うと、彼はぼそっと「子供だろ……」と呟いた。
 何だかムッとして、「失礼ですね! 私これでも十四歳ですから。そういう貴方は幾つ何ですか!」とやや喧嘩腰で問いただす。
「……………………」
 すると予想とは裏腹に、やや長い沈黙が流れた。
「あれっ、もしかして自分の歳忘れ……」
「十七歳だ」
 全力で思い出したのだろう。勝ち誇ったように言うゼルスだが、彼の年齢は見た目不相応に若かった。
 正直、成人と言われても差し支えない程度には大人びているのに。
 しかし、それはそれ、これはこれだ。
「たった三歳差じゃないですか!」と意気込んで返すも、鼻で笑われる。
「分かった分かった、子供じゃないのは分かったから、さっさと食うぞ」
 気がつけば、ミドリトカゲはコンガリいい色に焼けていた。
 とはいえ、食欲を誘うような見た目ではないが。
 むんずと一本掴むと、小さく一口齧る。
 正直、歩き疲れた今の私にとってはご馳走のように美味しかった。
 しかし、昨日親方に蹴られたせいで口内が切れていて、電流が流れるように痛かった。

 ふと顔を上げ、向かいを見れば、ゼルスは黙々と平らげていた。
 特に感想もなさそうだ。何というか、感情の希薄な男である。
 それから特に会話もなく、各々数匹のトカゲを腹に詰め込み、食事はお開きとなった。今までだって独りで食事をしてきたのだから慣れたものだが、こうも会話がないと気まずい。かと言って、振る話題もないし、あまり親しくなると情が湧いてしまう。
 まだ、私はシーフなのだ。
 ゼルスの首を切り落として、莫大な財産を得る事で、私はシーフを卒業できる。それまでは、油断してはいけない。
 愛想は振舞いつつ、常に首を狙い続ける。
 そうしなければ、私が望んだ明日はやって来ないから。
「……さっきも言ったが、明日も相当歩く。休めるうちに休んでおけ」
 食後間もなく、ゼルスは洞窟の入り口を見ながら言った。
 夜風が吹いて、若干肌寒い。昼間とは間逆だった。
 砂漠とは、往々にしてそういうものだった。

「……おやすみなさい」

 なるべく洞窟の奥の方で、マントに包まって横になる。
 ざらざらして堅い地面はとても寝心地が悪い。
 朝起きた時、身体中が痛いだろうな、と思いながら目を瞑った。
 パチパチパチ、と時々なる火の音に安堵する。
 焚き火のお陰で寒さは半減している。
 いつの間にか、眠りの海へ沈んでいった。
 ゆらり、ゆらりと、ゆっくり、ゆっくり。

 夢の中で『これは夢だ』と気が付く事は、私にとってはそう難しくもない事だ。
 私が見る夢は大抵悪夢だった。
 日々悪い夢のような現実と戦ってきた私にとって、悪夢のような現実感のないものにはすぐ気が付いてしまうのだ。
 『現実はこんな摩訶不思議じゃない』と。

 そして今回も、そうそうに気づいた。
 まずおかしい点その一。真っ暗闇の中で突っ立っている。
 おかしい点その二。自分の身体がよく見えない。あやふやな、モヤがかかったような感じだ。
 おかしい点その三。身体がうまく動かない。まるで縛り付けられているかのように、重たかった。
 おかしい点その四。あいつがいる。
 真っ暗闇の遥か向こうには、首なしの騎士が一人。すでに抜かれた十字剣は、いつ見ても赤黒く塗れている。いったいそれが何なのかは、考えるまでもない。
 やつに?現実?で出会ったのは僅か二回。
 一回目は、私が幼少の頃だった。私が両親と暮らしていた集落を襲い、私以外の全員を切り伏せた。
 二回目は、私が盗賊の生業を始めてからすぐの事。大きめの街の主であった公爵の屋敷に盗みに入った時、偶然にもやつが現れた。
 囲いを飛び越えて、誰にも気づかれずに屋敷に進入した私と違い、紅きデュラハンは正面より堂々と現れた。
 不気味に光るその剣一つで、屈強な警備兵約五十人を全滅させた。
 全ての兵の血をその剣に吸わせた後も、やつは屋敷の中をうろついていた。
 まるで、何かを探しているかのようであった。
 私はそんなやつの姿を見届けてから、こっそりと屋敷から撤退した。
聞く噂によれば、名うての王属騎士すら打ち破ったと言う。そのデュラハンは今やこの国でも名を馳せる?最上級要注意人物?となっていた。
 人物かどうかは別として。

 さて、この状況をどうしようか。
 今すぐに目覚めてしまいたい。どうせ碌な結末が待っていないのだから。
 音もなく近づくデュラハン。段々とその姿がはっきりしてきても、慌てる事はなかった。これはただの夢、私がこの世界の創造主なのだから。
――なのに、なのに、覚めてくれない。
 起きろ、目覚めろ、といくら思念したって何も変わらない。
 抗えないほどの恐怖心が全身を支配する。何もされない、と分かっていても、安らぐ事は出来ない。
 動悸が激しくなっているのを感じた。首なしの騎士の、その風貌はいつもより更に赤黒く塗れていた。
 視界は揺れた。


 一段と強い風が吹いて、目を開いた。額には、じんわりと汗が滲んでいる。
 そこは眠る前と同じ、洞窟の内部であり、薄明かりに照らされ静寂を保っていた。
 焚き火を見れば、木が燃え一回り小さくなっている。
 灯火に照らされた洞窟には、私以外誰もいない。
 暗がりにいるのかも知れないと周囲を見渡すが、気配はなかった。
「ゼルスさん?」
 その名を呼ぶ。
返事は、ない。

 もしかして、置いて行かれた? 先に行ってしまったのだろうか。
 本当にゼルスは睡眠を必要としない底なしの化け物だったのかもしれない。
「いやいやいや、そんなわけないない」
 よく見れば、麻袋はきちんと焚き火の傍らに置いてある。
 ひとまず立ち上がり、洞窟の出口へ向かってゆっくりと進んでいく。
 夜霧に紛れる獣の声と、怪物のうめき声のような風も無視して、ざらざらな洞窟を抜けていく。

 洞窟のすぐ入り口にゼルスはいた。岩壁に背中を預け、遠くの方を見つめている。
 寒くないのかな、と心配になったが、寒いなら中に入るだろうな、と考える。
 ふと見上げた空は分厚い雲で覆われていた。
「眠れないのか?」
 こちらを見向きもせず、彼は私に問う。
「それはこっちの台詞です」
 洞窟の入り口で、地平線を遠望しながら問いを返す。
「…………」
 言葉は返ってこなかった。
 彼が何を考えているのか、分からない。もしかしたら、疎ましく思われているかもしれない。
 でもそんな事はお構いなしに、ゼルスの横に腰を下ろした。
 拒絶されたら消えればいい。

 数刻の間、静寂が流れた。
 移ろう雲が、視界の端から中央まで流れた時、ようやく声が聞こえた。
「眠れなかった」
「あ、もしかしたら寝なくても生きていける系の人?」
「どういう系だ、それは」
 少し、雰囲気が和らいだ気がした。
 今、彼がフードを被っていなければ、きっと微笑している彼が見えるだろう。
 苦笑かもしれない。笑っているなら何でも良かった。
「もしかして、私が居たから……?」
「そうとも言える」
「私、まだ十四歳なんで……」
「そういう意味じゃない」
 少し語調が強かった。
 はぁー、っと大きなため息が聞こえる。
「随分長い事、一人で旅してきた」
 遠くで、ハイエナの目がギラリと銀色に光った。
「十年も流れるように流離い、ひたすら修練に明け暮れた。
 だから、時には人との付き合い方も忘れてしまうものさ」
 凄腕の剣士に、それでも私は同情できた。
 私もまた、物心ついてからずっと一人だったから。
 人と接する事はあっても、あくまで裏の顔で接する。
 誰も信じられず、汚れた路地裏を駆け回るネズミのような生活。
 今だって、ゼルスを出し抜こうと仮面を被って……。
「時に、自分を見失ってしまう事もある。これで良かったのか、と」
「……誰だって、そうです」
 自分が正しいか、正しくないかなんて、そんなものは二の次にして生きてきた。
「こんな事を、お前に言うのも何だけどな」
 私の事をただの一般人だと思い込んでいるはずの彼はそう言って苦笑する。
「……そういえば、ゼルスさんはどうして王属騎士を目指しているんですか?」
 王属騎士は高給だし、名誉ある職ではあるものの、正直ゼルスがそれになるのは想像がつかない。
 彼はどちらかといえば、傭兵とかそういう雰囲気である。彼自体、自由そうな感じだし、騎士なんて規律だらけのものは敬遠するものではないだろうか。

「別に王属騎士自体になりたいわけじゃない。ただ、国家を動かせるだけの権力があればそれでいい。
 王属騎士になって、騎士隊長まで上り詰めれば、軍を動かすだけの権力は手に入るだろう」
 彼の答えは、意外と言えるものであった。
 まさか王属騎士を目指す動機が権力志向だったとは、夢にも思うまい。
「へ、へぇ〜……。ゼルスさんって、そういうのを目指していたんですか……」
 豪華な椅子の上でふんぞり返っているゼルスを想像して、噴出してしまいそうになった。
 私の様子に気づいた彼は、面倒くさそうに補足する。
「言っておくが、別に俺は権威の類が欲しいんじゃない。俺はあくまで、魔王と戦うために手数を増やしたいだけだからな。魔王を討つ事、それが俺の旅の目的であり、その目的を成すには味方が必要なんだ」
 さらりと言ってのけた彼の言葉を理解するのに、ざっと十秒は要した。
 ようやく思考が聴覚に追いついた時、私はここ最近で一番の驚声を上げた。
 魔王、それはこの世界の腐敗の原因であり、且つ、実質的にこの世界を統べている者である。
 一説では、現魔王はかつて正義を志す者だったらしく、しかし前魔王に勝利した後何故かその後を継ぐように悪の道を進んだという。
 今や他の追随を許さぬほどに強力となり、世界中を意のままに操る事が出来るのだ。
 暗黒時代の到来とはつまりそういう事である。

 当然、魔王に歯向かう者はこれまでにも数え切れないほどいた。
 しかし、その全てがまるで歯が立たず、むしろ魔王に辿り着く事さえなく、取り巻きや部下に惨殺されていた。
 だから、近年では魔王と戦おうとする者などほぼ皆無となっていた。
 数ある国家郡ですら、魔王が支配する大国の横暴には黙認を貫いており、耐え忍んでいる状況だ。
 本格的に戦争を吹っかけられて初めて、それも絶対敗北の悲壮感を漂わせながら武器を手に取る、そんな感じだった。

 故に、ゼルスの宣言は私とって驚くべき事だった。
 いや、私だけではない。誰が聞いたって正気を疑うレベルだ。
 だから、一瞬冗談かとも思った。
 しかし、私の横で真っ黒いコートをはためかせている彼はやはり真面目なようであった。

「……これはあくまで宿命のようなものだ。魔王と俺はかつて師弟であり、そして戦友であり、友であった。やつが引き起こした世界中の悲劇は、元を辿ればやつを止められなかった俺が原因でもある。清算はきっちりつけなきゃならない」
 やっぱり、この人は強い人だった。改めてそう思う。
 自分がどう足掻いても、天地がひっくり返っても敵いそうにない、と思わせるだけの静かな力がそこにあった。
 彼をだまし討ちで殺そうなんて、甘い考えも良い所なのかも知れない。
 睡眠中……もしくは戦闘中に不意を討つしかなさそうだ。
「ッ……」
 ふと、我に返る。
 淡々と、彼を殺す手順を考える自分が怖かった。
 一日以上一緒に居るのに、何の躊躇いもなく殺そうと考えているなんて、自分には感情が欠落してしまったのか?
 それとも、これも覚悟と呼ぶのだろうか。彼の魔王を討つというその覚悟同様に。
 首を振った。そんなわけがない。私はあくまで利己的に生きている。彼とは正反対の人間だ。
 覚悟なんて、そんなかっこいいものじゃない。
 やっぱり、私とゼルスの間には決定的に、何もかもが、違うのだ。

 急に押し黙った私を不振そうに見るゼルス。顔は見えないけど。
 慌てて言葉を返す。
「あ、ま、魔王と師弟だったって……本当ですか?」
 とりあえず一番気になる部分だった。もしそうであれば、彼はいったい何者なのだろう……。
 彼と魔王の過去に、いったい何があったのか、とてもだが推し量れない。
「あぁ。やつが、まだ善の心を持っていた頃の話さ。
 ……さぁ、もう遅い。そろそろ戻って寝た方がいいぞ」

 あまり突っ込まれたくない話だったのだろうか。
 半ば強引に会話をぶった切り、彼は有無を言わせない勢いで言う。
「……うん」
 おとなしく引き下がる。
 私自身、ちょっと寝足りない。明日に備える意味でも、充分な睡眠は必要不可欠だ。

 小さい声でおやすみなさいと声をかけると、洞窟の奥へ引き返した。
 最後に覗いた空は、やはり雲に覆われていた。

 洞窟の中は、外と比べれば断然暖かく、冷えた体温が一気に戻ってくるような感覚がした。
 焚き火は先ほどよりさらに一回りばかり小さくなっていた。
 揺れる火と光に、私の影が混ざり合う。
 火というのは心理的に落ち着きを与える効果があるらしい。
 しかし、それでもかき消せない心のざわめきは、いったいどうすればいいのだろう?
 結局私は、ゼルスを殺せるのだろうか。殺さなければならないのか。恩を仇で返すような事をしていいのだろうか。
 覚悟も曖昧なまま、眠りに落ちた。

――――――――夜明け。

「おい、起きろ」
 声で目覚め、瞼を開く。
 明け方なのだろう。洞窟の入り口から微かに差し込んだ光が、内部を薄く照らしていた。
 半身起き上がり、寝ぼけ眼を擦る。正直、固い床で寝ていたせいで寝心地は最悪だった。
 普段も酷いものの、藁を敷いたりしているから、ここよりは幾分マシだった。
 全く身体が休まった気がしない。
 しかし、そんな泣き言を言っている暇はない。
 同行者はこの化け物、ゼルスである。
 そもそも寝たのかも分からない彼は、すでに旅準備万端で、今にも「さぁ、行くぞ」と声をかけてきそうだ。

 果然、長い徒歩の旅はすぐに始まった。
 夜間とは真逆に、ひりつくような日差しとうんざりするほど沈む砂漠の上を、どんよりした気持ちで歩んでいく。
 時折、ゼルスが持参していた水筒で水分を補給する以外、特に会話もなく、立ち止まる事もなく、ギルンデルク城に向かって邁進した。
 そもそも、何で私たちはこんな大砂漠を徒歩で通過しようとしているのだろう。
 通常、砂漠を渡るには馬車を使用する。
 都市間を定期的に行き来しては人々を運ぶ乗り合いバスを用いるのが一番現実的だ。
 無一文である私が言うのもおこがましい話だが、ゼルスならばお金は湯水のように持っている事だろう。
 尚更、不思議でならなかった。

 もちろんそんな疑問をぶつけるわけにも行かなく、ただ黙々とゼルスの背中を追った。
 相変わらず、とんでもない速度である。
 男女間で体格差があるのだから、歩幅が違ってくるのは当たり前なのだが、それを差し引いたって彼は早い。
 砂に足を取られる事もなく、すたすたと歩くその姿には思わず敬服させられる。

 燃え上がる太陽を傍目に、前進を続ける。
 シーフとして培ってきた運動能力をもってしても、この砂漠を越えるのに凄まじい消耗を強いられる。
「はぁっ、はっ……」
 昨日よりも数倍つらい。
 暑さからか、視界は陽炎のように揺れ、足には幾つかの肉刺が出来ていた。それが、踏み切る度に激痛を走らせるのだ。
 それでも懸命に、機械のように左右の足を交互に前へ突き出す。
 決して弱音は吐きたくなかった。
 ゼルスに頼めば、ペースを下げたり、最悪おぶって行ってくれるのだろう。
 だけど、それはプライドが許さなかった。
 私だって、これまで数々の修羅を潜り抜けてきたのだ、という有難くない気位であった。

 しかし、この砂漠には一切の目印がないのだ。
 今までにどれほど歩き、そしてこれからどれだけ歩けばいいのか分からないというのは、精神を疲弊させるのに十分だった。
 ふらふらと、力なく歩く両脚に、力なく垂れ下がった両腕、そして黙々と地平線をむき続けた両目。
 ついに、遥か彼方に都市の影を見た。
 間違いない、あれがギルンデルクだ。
「ゼ、ゼルスさんっ!」
 幾ばくか取り戻した気力で、ゼルスに呼びかける。
 彼はただ黙って頷き、変わらぬペースで都市を目指した。
 ようやくなんだ……。
 人間の身体というのは不思議なもので、テンションが上がれば自然と身体も追いついてくる。
 心は踊り、足取りもいつの間にか、軽やかなものとなっていた。


――――――――ギルンデルク城下町
 ギルンデルクという国家は、特に秀でた軍力を持った国である。
 そして、その軍力の頂点に在り、国王と首都の守護を司るのが、王属騎士なのだ。
 僅か五十名ほどで構成される騎士団は、それぞれが卓越した技量を備えており、臣民からも畏怖の念を抱かれるほどである。
 町を歩けば尊敬の眼差しを受け、族のアジトを訪れれば戦慄を与える。
 ――そして今、ギルンデルクの町を騒がしいのは無理もない話なのだ。
 王属騎士の約半数、騎士体長以下二十余名が中央通りを毅然たる隊列の元、行進しているのだから。――


 町に辿り着いた私とゼルス。まず私は、この町が放つ圧倒的な活気に驚愕させられた。
 黄土色の町とは比べ物にならない。
 町の入り口たるゲートから遥か遠方に聳える城まで続くメインストリートは、そこらの川より遥かに太く、そしてそのほとんど全てが人や屋台で埋まっていた。
 頭上には色とりどりの旗が掲げられており、それぞれに店の宣伝の類が書かれていた。
 また、時々飛んでいく風船や紙ふぶきは賑やかさを一段と掻き立てている。
 お祭りをそのまま町にしたような処であった。
「この国に、こんな大きな町があったんですね……」
 呆気に取られていると、ゼルスも隣で苦笑を洩らした。
「俺もここに来るのは初めてだが、想像以上に騒々しいな」
 ひとまず私たちはゲートで配られていた地図を入手する事にした。
 大量の地図を抱える人の良さそうなお姉さんに声を掛けると、すぐに地図を手渡してくれた。どうやら無料配布のようだ。
「…………」

 二人で、広げた地図を覗き込む。
 そして、この町のあまりに簡単な造りに感嘆を洩らした。

「……基本商業関係は全て、この中央通りに集約されているんですね。この道から一つでもずれれば、閑静な住宅地が広がっている、と」
 ある意味、この町は大樹のようであった。
 一本の太い幹から、複数の小さい枝が伸びている。
 太い幹を埋め尽くしているのが商店、枝の周りにあるのが住宅地。
 あまりに太い幹のため、商業地区が小さいとは感じなかった。
 これだけ大きなメインストリートを埋めているのだ。
 相当の数だろう。
 そして、その莫大な市場人口を総出で支えているのが、この町の?中央通り以外?というわけだ。
「とりあえず、泊まれる場所を探すぞ。何をするにも、まずは拠点確保が最優先だ」
 ゼルスの指示通り、地図上から宿屋を見つけようとする。
 地図上に細々と書かれた文字を一つ一つ流していく。
 そして探し当てた、宿屋の二文字。
 中央通りを真ん中まで上り、そこから路地裏に逸れた処に一つ。
 その地点を指差すと、ゼルスは頷き、「早速、向かおう」と言った。
 そして人でごった返す中央通りへ視線を向け、二人してゲンナリした。

 人と人の間、屋台と屋台の間を縫うようにして先へ進む。
 一歩進むたびに誰かとぶつかりそうになり、あるいはぶつかって弾き飛ばされる。
 その先にも人がいて、ピンボールのように目まぐるしく移動していく。それでも何とか努力してゼルスの背中だけは常に視界に留め続けた。こんなところで迷子など、真っ平ごめんだった。
 進んで進んで、されど進めど進めど、相変わらずの喧騒が私たちを包み込んでしまう。
 進路を塞ぐ人の波は永遠に続くかのように思われたのだが、しかしその波はある場所を境に、ぷっつんと途絶えていた。
 急に開けた場所に出て、思わず戸惑う。
 私の横で、ゼルスは正面を向いていた。
 その視線の先を追う。
 その先にも道は続いていた。
 人だっていないわけじゃない。
ただ、左右に分かれているだけだ。
 屋台も、人も、道を譲るように端っこへ移動している。
 私たちの周りだって例外じゃない。
 続々と、これから来るであろう彼らのために道を造る。
 そう、百メートル向こうに見える小さい、しかし確かな威圧感を放つ僅か二十余名の騎士集団が元凶であった。
 私はゼルスの裾を引っ張って、道の脇へと逸れた。
 放って置けば、ゼルスは平然と道の真ん中に突っ立っているような気がしたのだ。

 やがて、瞳に騎士団の姿が明瞭に映った。
 先頭には黄と白で基調された鎧に身を包む尊厳な顔立ちの男が一人。背中に吊るのは体躯以上の長さを誇る、白銀のランスだ。
 そして、彼に二列の隊列が続く。一目見るだけで一人一人が実力者だという事が分かる。
 鍛え抜かれた身体、使い込まれ鈍い光を放つ武具、一糸乱れぬ隊列、行進。
 町の人々が感嘆を洩らし、道を造るのにも頷ける。
 彼らの行く手を阻むなど、常人には出来やしない。
 出来るとしたら、例えば私の隣にいる彼くらいしか。いや、彼でも無理だと思うけど。
「ゼルスさん、あれがきっと王属騎士だと思うんですけど……」
「ああ、間違いなくそうだ」
「町の真ん中を闊歩して、いったいどうしたんでしょうね」
 素朴な疑問を投げかける。
 こんな人がたくさんいる道をわざわざ選んで行進するなど、定期的に行っていたのでは人々の不満が溜まるに決まっている。
 しかし、彼らに不満の色は見られない。むしろ、声援を送っている始末だ。
 これは余程珍しい事態なのだろうか。
 そして、応援するほど、人々は騎士団の行進を待ち望んでいた?
「とうとう、騎士団が引っ張り出されたか……」
 しわがれた声でそう呟いたのは、私の横、ゼルスとは反対方向にいた老父であった。
 杖で身体を支え、白髪さえも疎らにしか残っていない翁は、咽たように咳を吐く。
 咳が収まったのを見計らって、私は彼に声を掛けた。
「あ、あの、すみません……。あの騎士団は何をしに行くんですか?」
 翁はこちらを見ずに、掠れた声で囁くように言う。
「討伐じゃ。相手は近隣の洞窟を根城にする、化け物じゃよ。腕利きのハンターは皆やられてしまったから、とうとう騎士団に声がかかったのじゃ」
 老父は溜め息を洩らすと、杖を突いて路地裏へと去っていった。
杖の地面を叩くカツンカツン、と音が響き、やがて静けさに呑まれてその姿も見えなくなった。
「……まずいな」
 珍しく焦った様子のゼルスの声。
「えっ?」
「今のじいさんが言っていたそれが本当なら、騎士団の目標は……」
 ひらり、とローブから滑り落ちた一枚の羊皮紙。
微かに見えた【300万G+70P】の文字。
「……あっ!」
 一拍遅れて察した。
 ゼルスが狩ろうとしていたその獲物と、騎士団の討伐目標が同じである可能性。
 零ではない。むしろ、有り得過ぎるくらいだった。

「……ひとまず俺は、騎士団を追う。お前は……そうだな、金と荷物を渡すから、宿屋を借りておいてくれないか?本当はこの町に着いた時点で別れようと思ったが、事情が変わった。俺が戻るまで、好きにしていいから」
「えっ、ちょっ……」
 有無を言わさず、麻袋を預けてくるゼルス。剣と、最低限の装備だけとなったゼルスは、私の頭にぽんと手のひらを載せた。
「じゃあな」
 相変わらずフードに隠れた表情は読み取れず、頭に触れられた手のひらはグローブがしてあって本人の熱は感じられない。
 その声はやっぱり少年のようにも、大人のようにも聞こえる。
 仲間がいるのか分からず、その力量はどれほどなのかも分からず、素顔も分からない、私が殺そうとした相手。
 金品を巻き上げようとした相手。
 その彼が、金品を私にほぼ全て預けて、私の目の前から去ろうとしている。
 『じゃあな』のその声が、最後になりそうで、親方に金貨袋を取り上げられた時のように、弱弱しい手を伸ばす。
 しかし今回も届かぬまま、ゼルスの手のひらは私の頭から離れ、その身体は向こうを向いて、マントが翻り、次の瞬間には雑踏の中へと消えていく。
 声も出なかった。身体も動かなかった。
 重い荷物を抱えて、呆然と突っ立っていた。

 騎士団の通り過ぎた後の中央通りは元の喧騒に包まれ、商人魂燃え盛る人々の声が飛び交う
「ユーラス国から輸入した、極上の魚は如何かね!」
「眠気を覚ます、ツユサグサ、特売だよ〜!」
「明日、遠方からキャラバンが来るって噂だぜ」
「おおう、マジかい! そりゃ物々交換の準備をしとかなきゃなぁ!」
「騎士団風ストラップ限定発売!」
「迷子の猫を探してまーす!」
 地面が揺らぎそうになる。吐きそうになる。
 この町で、誰もが他人で、誰もが私に興味など持っていない。
 まるで透明になったみたいだった。
 それが良かったはずなのに、それがとても悲しかった。

 ゼルスから預かった麻袋を見つめる。
 紐を緩め、中を覗けば、大量の金や道具がそこにあった。
 これを全て持ったまま、トンズラする事も出来る。
 そうすれば、念願の……。
 頭を振って、思考を振り切った。

 今、私が求めているのはお金じゃないんだ。人との繋がりだったんだ。
 騒々しいこの町で、一人で生きていける自信なんてなかった。
 そして、私を信頼して荷物を預けてくれたゼルスを裏切ろうとも思わなかった。
 殺そうと思って着いて来たのに。今では、一人が不安で仕方ない。

 喧騒から逃れるように、路地裏へ駆け込んだ。
 この付近に、宿屋があるはずだ。
 明かりさえ届かない、冷たい路地裏。廃棄された莫大な数のゴミに群がるネズミ。
 目を背けて、奥へ。暗がりを走る。走る。走る。
 いつだったか、あの町で追いかけられていた時みたいに。石畳の、灰色の地面に転がる煙草の燃えカスを踏み潰す。
 気がつけば、道に迷い、同じ場所をぐるぐる回っていた。出口すらないように思えた。
 道幅は狭くて、壁が迫ってくるような感覚に戸惑う。
 そうだ、地図だ。地図を使おう。
 と、路地裏では目立つ、赤いレンガで出来た建物の前に座り込み、地図を広げ覗き込む。
 付近の地形から推測し、指で現在地を追う。そして見つけたここは。
 宿屋の目の前であった。

 一見開かないように見えた頑丈そうな鉄の扉は、体重をかけて力を込めると重々しく音を立てて開いた。
 宿屋だというのに、こんな非歓迎的な扉は有りなのだろうか。
 開いた扉から中を覗き込むと、外観とは違い、平穏な雰囲気が漂っている。
 木製の床に、幾つか置かれたソファとテーブル。
 客だろうか。数人が、テーブルを囲んで談笑しているのが見える。
 中に入るきっかけが掴めず、ぐずぐずと扉の外から中を覗いていると、中を歩いていた性別不詳の、多分オカマがこちらに気づいた。
 数秒、目が合う。謎の威圧感を感じて、離せない。
 とても怖くて、身体が震えそうになると、刹那、オカマが笑顔になった。
 本当に急に、信号機が赤から青に変わる時くらい急に笑顔になった。
「あ〜ら、可愛い子ねェ〜! ほら、そんなところに立ってないで、入っておいでェ〜」
 多分オカマから、モロオカマに格上げされた。いや、格下げかな。
 語尾を裏声で伸ばすのを辞めてほしい。ビブラード効き過ぎ。
「お、おじゃまします……」
 恐る恐る足を踏み入れれば、アットホームな空気が全身を包んだ。
 ここはラウンジなのだろうか。
 ソファに寄りかかり、机を挟んで談笑をしていた人たちが、一斉にこちらを振り返る。
 皆男性で、興味津々と言った様子でこちらを見ている。
 どうやらこの人たちはオカマじゃないようだ。思わず安心してしまった。
「それで、そんな大荷物を抱えちゃって、ここに泊まる予定かしらァん?」
 オカマ特有のくねくねした動作と共に距離を詰めて来る。
 近い、顔が近い!
「は、はい。私と、もう一人来る予定なんですけど……」
 半歩後ずさりしながら引き攣った顔で応える。
 するとオカマはまぁ、と口に手を当ててオーバーリアクションを取った。
「二人もお客さんなんて、今日はなんて素敵な日なのかしらァ!」
 オカマは謎の小躍りを始めてしまった。
 明らかに泊まる宿屋を間違ってしまった。
 もっとまともな宿屋ならいくらでもあるだろう……。
 客二人でこんなに喜ぶなんて、やっぱり曰く付きだ。主にこのオカマが。
 数秒で小躍りを止めたオカマは、満面の笑みで、手招きをした。
 そしてそのまま、階段を指差す。
「二人部屋でいいのよねェん? 階段を登って登って、三階に出て角を曲がってすぐ右手にある扉よん」
「分かりました。ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げると、視界の左端にあった木製のボロい階段を登っていく。
 段を踏むたびに不気味な音が鳴るし、大量の荷物を抱えているせいで大変な労力だ。
 下から、談笑している人たちの「おうおう、がんばれー」と声援なのか野次なのか分からない声が飛んできて、顔を少し赤く染めながらも二階へ到着した。
 そのまま、回れ右をして三階への階段へ挑戦する。
「荷物が、重すぎるよ!」
 息も絶え絶えに、言葉を洩らす。
 莫大なお金は紙幣だけではなく、金貨も含んでいるからやたら重い。
 他にも、生活必需品だとか、冒険必需品が多くあって、とても線の薄い少女一人に持たせる量ではない。
「でも…………」
 考えろ。ゼルスは、この荷物をずっと持って、あの砂漠を抜けたのか。
 そう考えると、やはりあの人は化け物のような存在だ。
 そうこうしている内に三階に辿り着いた。
 息を整え、麻袋の荷物を抱えなおし、廊下を渡る。
 すぐに突き当たりがあり、右手に曲がると、すぐ右手に扉が一つ。
「ここで、いいんだよね」
 質素な木の扉を開いた。

――――

 荷物を簡素な造りの部屋に置き、伸びをする。
 必要最低限の置物しかない部屋であった。
 大きめの窓からの見晴らしはよく、町の風景が堪能できる。
 それだけで、頑張って三階まで荷物を引っ張ってきた甲斐があるというものだ。
 どの方角を向いているのかは分からないが、視界のほとんどは住宅が埋めていた。
 人通りもあまりない。メインストリートがあの騒ぎだったのだ。相対的に、他の場所は静かなのだろう。
 そして、町の切れ目の奥、地平線には大きな岸壁が存在した。
 初めて見た、という事は、私たちが来た方角とは別の方角なのだろう。
 もしかしたら、あそこにゼルスや騎士団の狙う獲物がいるのかもしれない。
「そうだ。とりあえず、宿代を払わないといけないよね」
 麻袋から金貨の入った巾着を取り出した。その瞬間、小さな棒のようなものが袋から転がり落ちる。
「? 何だろう、これ」
 金属製の、二十センチもないくらいの、銀色の棒。先端には何か、ガラスのようなものが付いている。
 首を傾げ、とりあえずポケットに入れて部屋を出た。
 手に持った巾着はチャカチャカと賑やかに奏でる。
 階段を降り、ラウンジの掃除をしているオカマの元へ。
「部屋は分かったかしらァ?」
 相変わらず語尾の音域が跳ね上がる。
「はい、大丈夫です。それと、料金はおいくらですかっ」
 巾着袋を胸元で握り締めた。
「あらァん、それは最後でいいのよ。でもでもォ、そんなに高くないから安心してねん」
 ウィンクのオマケ付きときた。今に投げキッスとかして来そうで怖い。
 というかこの人、私が泊まるだけ泊まって、そのまま逃げるとか考えていないのだろうか。
 お人好しなのか、平和ボケしているのか。
「それに、お連れの人はまだいないでしょン?」
そういえば、最初にもう一人来るって言ったんだった。
「ま、ゆっくりしてて頂戴。暇ならどこかぶらぶらしていてもいいのよん。それか寛ぎたいなら、お菓子と紅茶を出してあげるわよォ」

 どうやらこのオカマは悪いオカマではないみたいだ。
 町に出たって、また道に迷うのが関の山だろうし、お茶でも貰おうかと思ったそんなその時。
 机の上でトランプに興じていた男性たちの会話が耳に入った。
「そういや聞いたか? ついに騎士団がお出ましだってさ」
「あぁ、アレだろ? あいつだろ? 流石に騎士団でもないと手に負えないからなぁー」
「最近はあの岩穴を根城にしてるって聞くしな。こんな目と鼻の先じゃ、仕方ねえって」
「騎士団だって、敵うかはまだ分かねえけどな。だって――」

 その先の言葉を聴いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
 カラフルなキャンパスが、一斉に色を失う。

「――は、この国で?最凶?かつ?最強?って噂だぜ」
 瞬間、私は巾着を放り出して、宿屋を後にした。オカマの声が背後から聞こえるが、返事はしない。
 一歩踏み出す度に鳴る、いつも煩わしく思っていたこの短剣が、この時ばかりは心に一抹の勇気を与えてくれていた。

 ――急がなきゃ。
 私は駆ける。
 三階の窓から、地平線に見たあの岩壁の方角目掛けて。
 大丈夫、私はシーフだから、スピード勝負なら自信がある。――

 額を伝った汗を拭って、不安に怯える身体に鞭を打ち、路地裏を疾駆した。
 このままでは、ゼルスが死んでしまうから。
 絶対の確信が、そこにあった。
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